沖縄で平年より遅い梅雨明け 沖縄本島の地上戦が終わった沖縄慰霊の日は梅雨明けの平年日だった
梅雨前線の北上
令和5年(2023年)6月24日の沖縄本島の那覇では、時々弱い雨が降ったものの、日照時間が7時間もあり、日最高気温が31.9度でした。
しかし、那覇では、6月25日以降は晴れて気温が30度以上の真夏日が続く見込みです(図1)。
【追記(6月25日12時)】
気象庁は、6月25日11時に沖縄地方が平年より遅い梅雨明けをしたと発表しましたので、タイトルの一部を修正し、写真1を追加しました。
また、6月24日の鹿児島県名瀬では、雲が多くて時々弱い雨が降り、日照時間は1時間50分しかありませんでしたが、6月25日以降は晴れて気温が30度以上の真夏日が続く見込みです。
これは、沖縄付近で停滞していた梅雨前線が北上する見込みであるからです(タイトル画像)。
また、線状降水帯が2回も発生し、大雨の梅雨となった鹿児島県奄美地方も、今日にも梅雨明けになるかもしれません。
梅雨前線に伴って、各地とも気温が高い日が続く見込みで、札幌でも最高気温が25度以上の夏日が続く予報です。
また、東日本の太平洋側から西日本では最高気温が30度以上の真夏日が多い予報となっています。
今年は、約40日前の5月17日に夏日が712地点(気温を観測している全国915地点の約78パーセント)、真夏日が299地点(約33パーセント)で猛暑日が1地点、5月18日に真夏日が282地点(約31パーセント)で猛暑日が6地点という暑さになった2日間が今年一番の暑さでした(図2)。
6月24日は真夏日が74地点(約8パーセント)、夏日が671地点(約73パーセント)でしたが、25日以降は、5月の今年一番の暑さや、夏日が753地点(約82パーセント)となった6月17日を上回る日が続きそうです。
しかも、これまでの湿度が比較的低い状態での高温と違って、今度は湿度が高い状態での高温です。
熱中症になりやすい高温ですので、今まで以上に警戒が必要です。
沖縄の梅雨明け
沖縄・奄美地方の梅雨は、5月末から6月に太平洋高気圧が強まってくるときに、インド洋から華南をへて沖縄付近に高温多湿な南西モンスーンが入ってくるものです。
南西モンスーンが主役で、北にある冷たい空気との間でできる梅雨です。
6月から7月に西日本〜東北のオホーツク海高気圧からの湿った気流が主役の梅雨とは少し違います。
この沖縄の梅雨明けの平年は6月21日ですが、これは、平成3年(1991年)から令和2年(2020年)での30年間の平均です。
気候の変化に対応するため、平年値は10年ごとに30年平均をとって新しい平年値として使っており、現在使っている平年値は、令和12年(2030年)まで使うことになっています。
沖縄地方の「梅雨明け」の平年値の推移
昭和26年(1951年)~昭和55年(1980年)の30年平均 6月22日
昭和36年(1961年)~平成 2年(1990年)の30年平均 6月23日
昭和46年(1971年)~平成12年(2000年)の30年平均 6月23日
昭和56年(1981年)~平成22年(2010年)の30年平均 6月23日
平成 3年(1991年)~令和 2年(2020年)の30年平均 6月21日(現在の平年値)
つまり、長いこと、沖縄地方の梅雨明けは、6月23日であったのですが、この6月23日は、太平洋戦争で旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日です。
沖縄の地上戦と梅雨
太平洋戦争の最大の激戦である沖縄戦では、連合軍は、4月1日に沖縄本島中部に上陸し、沖縄守備隊が守る那覇や首里などの南部を避け、北上して4月19日までに北部を制圧しています。
日本軍の反攻は5月4日に行われましたが、この作戦は失敗します。この年の沖縄は、梅雨入りが遅れており、圧倒的な連合軍の航空部隊が活躍できない梅雨期間を待てなかったのかもしれません。
連合軍は日本軍の反攻失敗で予備隊を使い果たしたとして首里に総攻撃をかけます。この頃から沖縄は梅雨に入ります。
空軍の活動が制約される梅雨になっても、日本軍に簡単に勝てるとの思惑があったのかもしれません。
しかし、戦闘は激化し、ぬかるみの中、両軍の激戦が続き、両軍に大きな被害がでていますが、徐々に南へ南へと追い詰められた日本軍の組織的な戦闘は6月下旬に終わっています。
このころ、沖縄が梅雨明けしました。沖縄戦の激戦は、梅雨入りとともに始まり、梅雨明けで終わったのです。
平和公園が作られている摩文仁で陸軍司令官らが自決した6月23日が旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる日で、沖縄県が定めた「沖縄慰霊の日」です。
沖縄気象台と戦争
沖縄における最初の気象官署は、明治23年(1890年)7月1日に誕生した沖縄県立の那覇測候所です。
那覇測候所は、大正14年(1925年)10月7日に国営移管となり、中央気象台沖縄測候所に、昭和7年(1932年)4月1日には中央気象台沖縄支台として強化されています(写真2)。
その後、行政改革で昭和14年(1939年)11月1日に沖縄気象台となって太平洋戦争に突入となります。
沖縄での戦争が激化した昭和20年(1945年)5月15日、新任の台長が赴任できなかったことから、気象技師の田中静夫が台長代理となって生き残った職員を率いて沖縄本島を南下しています。
しかし、職員が次々に戦死し、6月22日には田中台長代理以下12名が南部海岸の伊原で戦死をしています(図3)。
沖縄気象台は台長が不在のまま、昭和20年(1945年)8月11日に福岡管区気象台那覇支台となり、翌21年(1946年)11月13日に廃止となっています。
帳面上の話です。
なお、伊原の地には、沖縄戦で亡くなった70名の気象台職員の慰霊のため、福岡管区気象台や気象庁職員の募金によって「琉風之碑」が作られています。
沖縄本土復帰前、昭和30年(1955年)12月15日のことです。
タイトル画像、図2:ウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。
図1の出典:ウェザーマップ提供。
図3、写真2の出典:気象庁(昭和50年(1975年))、気象百年史、日本気象学会。
写真1の出典:ウェザーマップ・松澤まゆ撮影・提供。