【深掘り「鎌倉殿の13人」】「のえ」が子の北条政村を次期執権に推したのは史実か
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が佳境を迎えているが、「のえ」が子の北条政村を次期執権に推していた。この点について、詳しく掘り下げてみよう。
ドラマの中で、北条義時の後妻「のえ」(伊賀局、伊賀の方とも)が不穏な動きを見せている。伊賀一族は「のえ」の父の光季が京都守護に就任したにもかかわらず、まだ「のえ」は次期執権に子の政村を据えようとしていた。欲望は尽きなかったのだ。
「のえ」は政村を次期執権に定めるよう、北条政子に直談判していたが、そういうことはありえないだろう。
北条泰時は義時の嫡男であり、建仁3年(1203)の比企能員の変、建暦3年(1213)の和田合戦では大いに軍功を挙げた。
それだけではない。泰時は建保6年(1218)に侍所別当に任じられ、承久元年(1219)には従五位上・駿河守に叙位・任官されたのだから、次の執権になるのは明らかだったといえよう。既定路線である。
義時と「のえ」との間に誕生した政村は、元久2年(1205)の誕生だった。承久3年(1221)の時点で、まだ16歳の少年だった。すでに、三浦義村を烏帽子親として9歳で元服していた。
「のえ」が我が子の執権就任を望んだことは、親心としてあり得ない話ではない。しかし、政村は後妻の子であるからなどの理由によって、冷遇されたわけではない。のちに、政村は評定衆に就任し、引付頭人、連署という要職を歴任した。
政村は泰時に勝るとも劣らない有能な人物として評価され、歌人としても優れていた。何より政村は、晩年に7代目の執権に就任したのだから、その点には注意すべきであろう。
義時の死後の貞応3年(1224)6月から閏7月にかけて、伊賀氏の変が勃発した(「のえ」と伊賀一族によるクーデター)。この事件があったので、「のえ」は不審な人物としてドラマの中で扱われたのだろう。
実は、「のえ」の動静はほとんどわかっていない。政子に直談判した事実も確認できない。「のえ」は義時を毒殺したというが、それも確実な証拠がなく風聞に過ぎない。ラストはどうなるのか?