『君たちはどう生きるか』には、「私はこう生きる」と答える(ネタバレ)
※この評には少しネタバレがあります。
見た後に、さて『君たちはどう生きるか』と問われれば、やはり“過去の悲劇に囚われずに今を生きろ”というメッセージに従うだろう。
夢の世界の死んだ母とではなく、現実界の新しい母と生きる、という選択である。死んだ母もそう勧めていたし、新しい母も献身的な行動でそう示していた。
それに何より、夢の世界が楽しそうでないのだ。
■ブラックな仕事の後継者にはなれない
死の臭いが濃厚にするクリーチャーがあふれる不健全な世界で、使命と言えば、バランスを崩せば即崩壊の現実界が生き長られるように、あっちこっちの調整に神経をすり減らせる滅茶苦茶大変かつ、一人でしかできない孤独な仕事。
こんな世界で、こんな仕事の後継者になりませんか、と言われても、断るに決まっているじゃないか。
主人公の選択は、“夢の世界が嫌なので……”という消極的な選択でもあった。
現実世界のメンテナンスなんて責任が重過ぎるし、塔に閉じこもるのは寂しいし、外に出ても生存本能だけで動く狡猾で原始的な化け物だらけで気が休まらず、むろん同僚も友だちも伴侶もできない。
こんな世界を見せられて、『君たちはどう生きるか』と聞かれても、今どき、こんなブラックな職場、ブラックな人生を選ぶ若者はいませんよ。
ネガティブな夢の世界が主人公の背中を現実世界へと強烈に押している、という作品だった。これはつまり、宮崎駿が“今の現実を生きなさい”という方向へ誘導している、ということだろう。
■未来はバラ色ではない、と警告する誠実さ
となると、自虐的なメッセージを持つ作品ということになる。
夢の世界で後継者を探す老人、というのは宮崎駿自身だと言われているので、本人が“自分の後継者になると酷い目に遭う”と警告しているのだから。
この自虐は誠実さかな、と思う。
嘘で飾り甘い言葉を囁いて誘い込む、というのが性分としてできない。よって、“こんな私の後を継ぐなと突き放す”(心の中では密かに勇気ある若者の出現を期待しているかもしれないが……)。
とはいえ、後継者が現れないと困ることが起こる。
様々な均衡をかろうじて保つことで成立している現実世界は、バランサー抜きでは成立しない。ぐらぐら揺れる土台の上での先人の曲芸的な活躍によってやっと崩壊を防いではいるものの、状況はどんどん悪化している。
未来は決してバラ色ではないと、この作品は言う。
■未来と対決する必要は無い。逃げてもいい
バランスを崩すと世界の崩壊を招きそうなものとは、具体的に何だろう?
それは一つには軍事バランスだろう。
ウクライナとパレスチナを見るまでもなく、世界的な緊張は第二次大戦後最悪のレベルまで高まっているように思う。
次に自然と人類の関係だろう。
これはすでにバランスが崩れていて、スペインでは温暖化による干ばつが社会問題化し、いずれ南部は砂漠化する、とさえ言われている。
3つ目は人の心のバランスの危うさ。
広がる一方の貧富格差を前に、人はいつまで平静を保ち続けられるのか?
バラ色の未来を見せないのも、誠実だからだろうが、そんな暗い未来で、『君たちはどう生きるか』と問われた私たちはどう生きればいいのか?
後継者になるのは拒否した。自分の小さな幸せを選んだわけだが、それでは世の中は悪くなる一方だ。となると、作品のもう一つのメッセージというのは、“戦わなくていい。逃げていい。ただ、自分で避難場所を見つけて生きなさい”ということだろうか。
追記1:スペイン語版のタイトルは『El chico y la garza』、「少年と鷺」という意味で英語版の『The Boy and the Heron』に準じたものだった。『君たちはどう生きるか』という問いかけが消えると、見る者に考えさせるという作り手の意図が消え、見る側の向き合い方が変わってしまう。ジブリらしからぬ痛恨のミスだと思うがどうか。
追記2:昨年のサン・セバスティアン映画祭で、こんなエピソードがあった。
『君たちはどう生きるか』が同祭のオープニング作品に選ばれ、宮崎駿監督が功労賞であるドノスティア賞を受賞したのだが、感謝の言葉を述べると一切プロモーションをしない、という約束を破ってしまう。そこで選ばれたのが、「スマホでの録画は厳禁」という条件でメッセージビデオを流す方法だった。
長さはわずか23秒で、内容も普通の挨拶だったのに「録画厳禁」……。栄えある映画祭に対しても妥協は最低限、というのも頑固なまでの誠実さだろう。
※写真提供はサン・セバスティアン映画祭