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1928年の今日、黒人初のNBA選手がこの世に生を享けた

林壮一ノンフィクションライター
生前のアール・ロイド(左)(写真:ロイター/アフロ)

 黒人初のMLB選手、ジャッキー・ロビンソンが付けた背番号42は、メジャー全てのボールパークでその功績が記され、30球団で永久欠番となっている。ロビンソンの名は、ブラックヒストリーを学ぶ際に必ず登場する。

写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ

 だが、黒人初のNBAプレイヤー、アール・ロイドの名はロビンソンほど後世に伝えられていない。今日、ここで、1928年4月3日にヴァージニア州アレクサンドリアで産声を上げたロイドについて触れておきたい。

写真:ロイター/アフロ

 ロイドが生まれ育ったジョージア州は、"ディープサウス"と呼ばれ、アフリカ大陸から連れてこられた黒人奴隷たちが、白人が経営する広大な農園で家畜のように扱われていた。ロイドが過ごしたアレクサンドリアも、居住区が肌の色によって分けられ、「黒人は劣っている」という偏見が根強く残っていた。白人の生活エリアはロイド家から、たった4ブロックしか離れていなかったが、近くて遠い場所だった。

 炭鉱夫だったロイドの父は、口数の少ない男だった。白人家庭でメイドとして働き、料理を得意としていた母は「しっかり勉強して、教養を身に付けなさい。お前は大学まで行くのよ」と事あるごとに言った。当時、多くの隣人たちが高校中退者となっていた。学が無かった両親は、子供には同じ思いをさせたくなかったのである。

 ロイドは大学卒業まで、教師たちも、クラスメイトも、先輩も、後輩も、黒人しかいない環境で成長した。彼らは市内にある公共のプールに入れず、水泳を楽しむ折には川に飛び込んだ。町のレストラン、トイレ、水道は<Colored only(有色人種だけ)>と書かれた物を使わねばならなかった。

 白人たちとは生きる空間が違ったのだ。

写真:ロイター/アフロ

 母親の言いつけを守り、学業に精を出したロイドは6年生を飛び級し、5年生から7年生(日本の中学1年)となった。

 野球少年だったロイドにとって、9歳年上のジャッキー・ロビンソンはアイドルだった。当初はバスケットボールよりもベースボールに魅了され、高校でも大学でも投手として活躍する。ロイドが高校を卒業した1947年にロビンソンはマイナー契約を結び、プロの世界に飛び込んでいる。

 1950年夏、ロイドは晴れてメジャーリーガーとなったロビンソンが所属していたブルックリン・ドジャースのサマーキャンプに招待され、プロテストを受けた。

1947年4月、黒人初のメジャーリーガーが生まれた。スライディングするジャッキー・ロビンソン
1947年4月、黒人初のメジャーリーガーが生まれた。スライディングするジャッキー・ロビンソン写真:ロイター/アフロ

 身長198センチのロイドは、ベースボールよりもバスケットボールの方が自分にチャンスがあることを自覚する。ウエスト・ヴァージニア州立大のPFとして活躍し、同大学のバスケットボール部は米国ブラック大学チャンピオンとなった。

 ロイドは、1950年のNBAドラフトにて、全体100位でワシントン・キャピトルズからコールされる。そして同年のハロウィンの夜(10月31日)にデビューし、6得点を挙げた。

 「当時のNBAで最も低い4500ドルのギャラだった。黒人に司令塔は無理だと言われていた。私は得点しようと思えば可能だったが、ディフェンスに徹した。それが自分の役割だと認識したんだ。リバウンドで負けないように、と思っていたね。

 客席から『おい見ろよ! 黒人だ!!』なんて声が飛んだが、反応せずに無視した。私は、怒りを飲み込むことを理解していたんだ」

 ジャッキー・ロビンソンは、白人のリーグであるMLB選手となる前、ニグロリーグでプレーしていた。しかし、そこでは並の選手でしかなかった。彼が人種のバリアを破れたのは、ニグロリーグ側が「いかなる屈辱にも耐えられる男」として、ホワイトの世界にロビンソンを送り込んだからである。

 ロイドは自身のアイドルから、処世術を学んだ。その後ロイドは軍隊を経て、6シーズン、シラキューズ・ナショナルズでプレー。全てのシーズンでプレイオフ進出を果たした。

 「バスケットボール界には、ジャッキー・ロビンソンが直面したような差別は無かった。だから、彼とは比べないでほしい。白人も黒人も、共に勝利を目指したよ。遠征先では、チームメイトと一緒に食事できるレストランもあれば、入店を拒まれる場所もあった。タクシー乗り場で、黒人客の前には停まらないドライバーもいたね。

 シラキューズは最悪な土地でも、最高の土地でもなかった。ブラックしか住めないエリアがあったよ」

2003年にバスケットボール殿堂入りを果たしたロイド。後列右から2人目
2003年にバスケットボール殿堂入りを果たしたロイド。後列右から2人目写真:ロイター/アフロ

 1958年、デトロイト・ピストンズにトレードされたロイドは、2シーズン在籍した後、現役を退く。8シーズン、アシスタントコーチを経験した後の1971年、黒人として2人目のNBA監督となり、ピストンズで指揮を執った。

 42年もの間デトロイトに住み、地元警察による青少年育成プログラムでバスケットボールの指導を続けもした。2015年2月26日、ロイドは86歳で永眠した。

写真:ロイター/アフロ

 今日のNBAにおいて、80%以上が黒人である。主力選手たちは、国民的スターであり、誰もが羨む高給取りとなった。今日があるのは、ロイドが第一歩を踏み出したからだ。その先人の名を、忘れてはならない。

ノンフィクションライター

1969年生まれ。ジュニアライト級でボクシングのプロテストに合格するも、左肘のケガで挫折。週刊誌記者を経て、ノンフィクションライターに。1996年に渡米し、アメリカの公立高校で教壇に立つなど教育者としても活動。2014年、東京大学大学院情報学環教育部修了。著書に『マイノリティーの拳』『アメリカ下層教育現場』『アメリカ問題児再生教室』(全て光文社電子書籍)『神様のリング』『世の中への扉 進め! サムライブルー』、『ほめて伸ばすコーチング』(全て講談社)などがある。

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