ぼくたちに、もうユメは必要ない。 ~ビジネスも「ミニマリスト」の時代
「少年よ大志を抱け」「もっと自分のやりたいことを見つけなさい」「あなたの夢は何? 夢の一つや二つ持ちなさい」……などと、多くの大人たちが言っています。若いころから夢を持ち、大人になってその夢が叶ったとき、その幸福感は計り知れないことでしょう。しかし、前述したような「命令調」で言われると違和感を覚えます。なぜなら夢は「手段」であるからです。決して「目的」ではありません。
「私にとって人生の目的とは何か?」「生きるとは何なのか?」という哲学的な問いをしたい人は、どうぞやってください。ただし「哲学的な問いをしたい人」だけにしましょう。そういう難解なことを考えることが好きな人、複雑で捉えどころのない事柄の「真実」を突き止めようとする自分の姿がクールだと思う方は、そのプロセスそのもので快楽を感じるのでいいのです。
しかし難解な問い掛けをされても、頭が混乱するだけで不快に感じる人なら、そういう問いはやめましょう。疲れるからです。人生の目的は決まっています。それは、誰かを幸福にすることです。幸せにすることです。幸福感というのは「感覚」を指しているので、その人の価値観にとらわれません。脳内物質のドーパミンなどが分泌されれば「快楽」を得られるわけですから、悩む必要などありません。難解ではなく明解です。目的は誰もが同じです。向かう先は同じなのですが、目的地へ行く手段が違うのです。
「君の夢は何か?」と問い掛けられ「幸せになることです」と答えると、「そういうことじゃなくて」と反論されそうです。したがって、
「私の夢はプロのサッカー選手になることです」
「僕の夢はIT企業の社長になって、世界を豊かにすることです」
……などと答えるようになるのです。
しかし、あくまでもこれらの夢は「手段」です。家族や友人や同僚、お客様……たちに幸福感を与え、社会に対して貢献してはじめて自分も精神的報酬を得るという公式は変わりありません。難解ではなく明解なのです。この「手段」にこだわると「手段の目的化」という現象に陥ります。「手段」なのに「目的」だと勘違いすることです。
「私の夢はプロのサッカー選手になることです」
と公言していた子どもがサッカー選手になれず、大人になって普通の会社員になったとします。こういう人を世間では「夢をあきらめた人」「夢に破れた人」などと呼んだりします。
しかし、いま勤めている会社でいきいきと働き、お客様にも感謝され、笑顔の多い家族とともに過ごしている人であればどうでしょうか? 「プロのサッカー選手」になっていたほうが日々「アドレナリン」の分泌する量は多いかもしれませんが、幸福物質である「ドーパミン」の量は、それほど変わらないかもしれません。
夢は「手段」であり「道具」です。
私は現場に入るコンサルタントです。業務を効率化したいと言って、「情報システム」を導入したがる企業があります。それはそれでいいのですが、その情報システムという「道具」を使わなくても、業務の効率を上げることはできます。「道具」にこだわると、本来の「目的」を見失うことになりかねません。これが「手段の目的化」と呼ばれる現象です。
「夢を持て」と他人の価値観を押しつけられ、自分の夢がよくわからない、生きる意味がわからなくなった、などと哲学的な悩みをするのはやめましょう。業務効率化をしたいのに、どんな情報システムを導入したらいいかわからないと頭を悩ませている総務部長と同じ「平和な悩み」です。
「ミニマリスト」という言葉が注目を集めています。不必要な物は持たず、最小限の物だけで生活しようとする生き方、暮らしのスタイルを好む人たちのことです。最小限主義者とも呼びます。とにかく最小限でいい。何も持たない、という潔さがいいと私は思います。
夢という「道具」にこだわらず、その「道具」をたくさん身の回りに持とうとせず、もっと単純明快に物事をとらえ、本来の「目的」に淡々と突き進んでいく。そんな生き方でも、自分や誰かを幸せにするという目的は果たせます。
夢はあってもなくても、どちらでもよいと言えます。山があるから、その山に登りたいと思える人もいるでしょう。その山を眺めていたいという人もいることでしょう。山に気付くことなく日々過ごす人もいることでしょう。その山と同じなのです。「夢がないとダメ」という発想は他人の価値観です。どうせ人生は一度きりなのですから、他人の人生を歩む必要はないと私は考えています。