「二・二六事件」は降雪の中での事件ではなく、南岸低気圧の積雪が残っていた寒い日の事件
南岸低気圧
天皇誕生日を含む三連休の最終日、2月25日は本州の南岸を低気圧が発達しながら通過しています(図1)。
このため、西日本や東日本、東北の広い範囲で雨や雪が降りましたが、寒気の南下が弱く、低気圧が陸地を離れて通過したこともあり、関東地方の降雪は山沿いが中心で、平野部では雨として降りました。
雪になりませんでしたが、日中の気温が上がらず、寒い一日となりました。
東京都心では、三連休が始まる前の2月20日に最高気温23.7度を観測したときに比べると様変わりでした(図2)。
南岸低気圧が通過するとき、関東など太平洋側では大雪となることがあり、過去の東京の大雪は、いずれも南岸低気圧によるものです。
東京では、明治8年(1875年)6月の観測開始から約149年間で、最多の積雪は、明治16年(1883年)2月8日の46センチです(表1)。
次いで、昭和20年(1945年)2月22日の38センチ、昭和11年(1936年)2月23日の36センチ(正確には35.5センチ)ですが、3位の記録を観測した昭和11年(1936年)には、大雪のあと大事件が発生しています。
それが、2月26日に発生した「二・二六事件」です。
昭和11年(1936年)の大雪
降雪中に起きた三大事件として、多くの場合、
・「赤穂浪士討ち入り」(元禄15年12月14日、1703年1月30日)、
・「桜田門外の変」(安政7年3月3日、1860年3月24日)、
・「二・二六事件」(昭和11年2月26日、1936年2月26日)があげられます。
気象観測が行われていない元禄15年と安政7年の雪の詳細は分かりませんが、昭和11年(1936年)については、大手町に中央気象台(現在の気象庁)があり、詳しい雪の観測が残されています。
大手町は、事件のあった永田町から約2キロメートルと距離が近いので、大手町の雪の観測は、ほぼ永田町の雪の観測とみなせます。
昭和11年(1936年)2月26日に中央気象台で雪を観測したのは8時8分からです。
そして、毎時降水量は、9時から18時まで0.1ミリ以上で、昼頃からは、1時間降水量が1ミリ以上(1時間降雪量が約1センチに相当)と、やや強い雪が降っています(表2)。
また、19時から23時は0.0ミリ、つまり、降水があるものの、0.1ミリには達しないことを示していますが、1時から8時までと24時は「ー」です。
この「ー」は、降水現象が無かったことを示しています。
当時の地上天気図をみると、南岸低気圧が通過中です。
そして、四国沖の低気圧の東進に伴って降水域も東に広がってくるのですが、2月26日6時の段階での雨(図中で黒丸の記号)や雪(図中で六分割の記号)の範囲は、近畿地方までで、東海から関東は曇り(図中で二重丸の記号)となっています(図3)。
中国東北区(当時は満州と称していた)へ移駐することが決まっていた東京の第一師団に属する青年将校が中心となり、約1500名の兵士が兵営を出発したのが4時すぎです。
そして、首相官邸などを襲撃して斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣ら9名の殺害等の反乱行動があらかた終わったのは、7時頃で、雪が降り始める1時間前です。
映画やテレビなどでは、降雪の中での事件として、しかも強い雪が降っている中での事件として描かれることが多いのですが、これは脚色で、実際には、まだ雪は降っていません。
南岸低気圧が寒気を南下させ、最高気温が0.3度、最低気温が氷点下2.2度、平均気温が氷点下1.3度という寒い日の事件でした。
ただ、当時の多くの人々が、「大雪の二・二六事件」というイメージを持ったのは事実です。
東京に住む多くの人が事件を知った日中は雪が降っていましたし、3日前に南岸低気圧によって降った記録的な大雪が解けずに残っていましたので、雪の日の事件という受け取り方をしました。
また、東京以外に住む人も、事件を伝える新聞の写真等に写っている兵士の足元の雪などから、雪の日の事件という受け取り方をしました。
「二・二六事件」は、3日前の南岸低気圧による大雪が残るなか、曇りの天気の中の事件です。
3日前の南岸低気圧は、2月22日に台湾の北東海上に発生し、発達しながら本州南岸を進みました(図4)。
「二・二六事件」の日に雪を降らせた南岸低気圧の一つ前の南岸低気圧です。
2月23日の大雪の後、積雪がなかなか減らなかったのは、東京で低温の日が続いたからです。
昭和11年(1936年)2月下旬の最高気温は、ほぼ平年の最低気温ですし、最低気温は平年を下回り、ほとんどの日が氷点下です(図5)。
2月上旬に降った積雪が無くなっていたところに23日に大雪が降り、積雪量は、2月23日36センチ、24日29センチ、25日21センチ、そして事件当日の26日13センチと、積雪の減り方はゆるやかでした(表3)。
積雪がなかなか減らなかったところに、事件後に降った雪で積雪量が増えています。事件後の降雪により2月27日の積雪は20センチと、一日で7センチ増加しています。
つまり、13センチの積雪があったところに、7センチの降雪ですから、もともとあった積雪の方が多かったのです。
昭和凶作群
事件の時も、事件のあとも寒かった昭和11年(1936年)ですが、寒かったのは、この年だけではありません。
昭和初期は、昭和凶作群と呼ばれるほど、毎年のように冷害が発生していました。
昭和6年(1931年)に東北と北海道、昭和7年(1932年)に北日本、特に北海道、昭和9年(1934年)に北日本、昭和10年(1935年)に北日本と東日本で冷害が発生しています。
「二・二六事件」の時は、北日本の農家が疲弊し、困窮のピークに達しており、このことが事件の背景にあったともいわれています。
事件発生時、陸軍では対応策がなく混乱していましたが、昭和天皇が激怒され、自ら近衛兵を率いて鎮圧に向かうとの意思をお示しになったため、陸軍は決起部隊鎮圧へと向かうことになります。
(反乱軍兵士に投降を呼びかけるビラ)
下士官兵ニ告グ
一 今カラデモ遅クナイカラ原隊ヘ帰レ
二 抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三 オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
二月二十九日
戒厳司令部
気象庁には、「二・二六事件」のときの気象観測記録だけではなく、約150年間にわたる気象観測資料が保管されています。
それらは、その時に何が起こったのかをできるだけ忠実に記録し、後世に残そうとした先人たちの思いの結晶です。
図1の出典:気象庁ホームページ。
図2の出典:ウェザーマップ提供資料をもとに筆者作成。
図3の出典:気象庁印刷天気図。
図4の出典:饒村曜(平成11年(1999年))、イラストでわかる天気のしくみ、新星出版社
図5、表1の出典:気象庁ホームページをもとに筆者作成。
表2、表3の出典:気象庁資料をもとに筆者作成。