紫式部の生家の藤原氏は、同じ藤原氏でも藤原道長の家柄と大違いだった
今年の大河ドラマ「光る君へ」の主人公の紫式部は、藤原氏の流れを汲むが、藤原氏といっても数多くの流れがある。紫式部の生家の藤原氏は、どの程度の家柄だったのか、考えてみることにしよう。
藤原氏の祖は、中臣(藤原)鎌足である。以後、不比等、冬嗣と家督が受け継がれた。紫式部の生家の藤原氏は、冬嗣の六男の良門(生没年不明)を祖とする。
良門は若くして亡くなったと考えられ、正六位上・大舎人で生涯を終えた。冬嗣の子の中で、殿上人である五位に昇進しなかったのは、良門だけである。
良門には、高藤と利基という2人の子がいた。紫式部の祖に当たるのが、利基である。利基も生没年不明であるが、おおむね9世紀半ばから後半にかけて活躍した人物である。
最終的に、利基は従四位上・右近衛中将に叙位任官されたが、身分的にはあまり高いとはいえない。利基の子の中で、紫式部の祖となるのが六男の兼輔である。
兼輔(877~933)は、醍醐天皇が東宮(皇太子)の頃から仕えていた。また、娘の桑子が醍醐天皇の更衣(令外の后妃)であり、外戚関係にあった。そのような事情もあり、兼輔は当時にあって、天皇との外戚関係がその後の出世に有利に作用したことは、もちろんいうまでもない。
寛平9年(897)に醍醐天皇が即位すると、兼輔は昇殿を許された。その後の詳しい官歴は省略するが、蔵人として天皇に仕え、最終的には、従三位・中納言兼右衛門督まで昇進したのである。
兼輔が特筆されるべきは、和歌や管弦に通じた教養人だったことである。『古今和歌集』以下の勅撰和歌集に56首が入集し、三十六歌仙の1人として名を馳せた。家集としては、『兼輔集』がある。
その子の雅正(?~961)も父の豊かな文才を受け継ぎ、『後撰和歌集』に和歌が入集したほどである。しかし、父ほどに昇進はせず、位階は従五位下に止まり、豊前守、周防守などの受領を歴任した。周防守在任中に亡くなったので、決して恵まれていなかったのかもしれない。
雅正の子が為時(紫式部の父)である。為時も生没年が明確ではなく、10世紀半ば頃に誕生し、11世紀の初頭に亡くなったと推測されている。
為時は父祖と同じく和歌や漢詩文の才能に恵まれ、漢詩が『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に採られたほか、和歌が勅撰和歌集に入集した。しかし、その官歴は振るわなかったといえよう。
永観2年(984)、花山天皇の即位とともに、為時は六位・蔵人に叙位任官された。ところが、その2年後に花山天皇が退位すると、その後は約10年にわたって散位となる不遇をかこった。
散位とは位階があっても、就く官職がないことをいう。長徳元年(996)になって、為時はようやく従五位下・越前守に叙任され、越前国へ赴任したのである。その際、紫式部も父に同行した。
つまり、同じ藤原氏とはいっても、紫式部が祖とする藤原氏の傍流と、藤原道長の本流とでは、圧倒的に家格のうえで差があった。道長が摂関政治を主導して栄耀栄華を極める一方、為時のほうは受領となるのが精一杯だったということになろう。
主要参考文献
角田文衛『紫式部とその時代』(角川書店、1966年)
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985年)
沢田正子『紫式部』(清水書院、2002年)
山本淳子『『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)