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プーチン訪日を呼びかける安倍首相はリトビネンコ事件の報告書を読んでみて

木村正人在英国際ジャーナリスト
公聴会の報告書を受け、記者会見するマリーナさん(右)とアナトリーさん(写真:ロイター/アフロ)

「正義が実現しましたね」

21日、元ロシア連邦保安庁(FSB)幹部アレクサンダー・リトビネンコ氏(当時44歳)の毒殺事件の公聴会の報告書が発表された21日、王立裁判所の第73法廷でリトビネンコ氏の妻、マリーナさんに筆者は「正義が実現しましたね」と声をかけました。

マリーナさんは「マサト、ありがとう」と言って、ほんの少しだけ笑顔を浮かべ、手を優しく握り返してきました。

疲れが見えるマリーナさん(21日、筆者撮影)
疲れが見えるマリーナさん(21日、筆者撮影)

マリーナさんはいつもエネルギッシュで溌剌としています。さすがに、この日はかなり疲れが浮かんでいました。テレビや新聞のインタビューをこなし、事件から9年2カ月余の記憶が頭の中を駆け巡って、昨夜はあまり眠れなかったに違いありません。マリーナさんと筆者の付き合いはもう7年以上になります。

アナトリーさんを交えて日本食レストランで会食したり、拙宅でのタコ焼きパーティーやバーベキューに来てもらったりしました。最初はインタビュー、次はマリーナさんとアナトリーさんを元気づけるため、今は友人として2人を見守っています。社交ダンスの先生であるマリーナさんは活発で、本当に陽気な人です。

328ページに及ぶ公聴会の報告書には、毒殺はFSBの指示で実行されたのはほぼ確実で、「おそらくプーチン露大統領もニコライ・パトルシェフFSB長官(当時)も承認していた」と明記されているのを読んだとき、体が震えました。ジャーナリストとして活動していて良かったなと思いました。妻であり母であるオンナの一念岩をも通すという言葉が浮かびました。

高等法院の判事を退職したロバート・オーエン裁判官にとっては「白鳥の歌」とも言える渾身の報告書になりました。何しろ無敵のストリートファイター、プーチン大統領を指弾したわけですから。

「私は待てない」

最愛の人を失ってからマリーナさんには次々と苦難がふりかかってきました。2008年11月のインタビューで、マリーナさんは筆者に「英政府はいつまでも待てるかもしれないが、私は待てない」とリトビネンコ氏の死因審問を求めていることを明らかにしています。

英国のロンドン警視庁や対外情報機関MI6は、ロシア人の実行犯2人だけにとどまらず、ロシアの国家関与を示す証拠をつかんでいました。死因審問でその動かぬ証拠が表に出れば、英露関係は修復できなくなるほど悪くなる恐れがあります。だから時の政権も外務省も「事件としてきちんと対応するから」とマリーナさんをなだめてきました。

2011年9月にキャメロン英首相は英国の首相としては6年ぶりにロシアを訪れ、メドベージェフ大統領と会談。12年8月にはロンドン五輪に合わせて訪英したプーチン大統領とキャメロン首相は一緒に柔道の試合を観戦しています。死因審問がようやく動き始めたのは13年5月のことです。

マリーナさんの活動を資金面で支援していたのは反プーチンを鮮明にしていた政商ボリス・ベレゾフスキー氏です。ベレゾフスキー氏はプーチン大統領にとって不倶戴天の敵であり、英国にとっては招かざる客です。だから英国の外務省は建前としてはリトビネンコ事件の解決を言いますが、本音ではあまり騒いでほしくないのです。

そのベレゾフスキー氏は、人気サッカー・チーム、チェルシーのオーナー、ロマン・アブラモヴィッチ氏との裁判闘争に敗れ、失意の中、13年3月に自殺とみられる死を遂げます。死因審問を進めるスポンサーを失ったマリーナさんは筆者に「悲しくて今は何も答えられない」とだけ話しました。

政治家と官僚のご都合主義

当初は検死官役だったオーエン裁判官は、死因審問では国家機密を理由にMI6など情報機関の証拠が排除されるため、同年6月に非公開で証拠調べができる公聴会(公開調査)の開催を求めます。しかし英政府はこれを拒否。マリーナさんは2014年1月に高等法院に対して公聴会を認めるよう訴えます。

翌2月、高等法院は公聴会の開催を認めなかった英政府は間違っているという判断を下したため、メイ内相が7月に公聴会の開催を発表します。クリミア併合などウクライナ危機とマレーシア航空17便撃墜事件でロシアを揺さぶる材料が必要になったからです。政治家と官僚のご都合主義が浮かび上がります。

この日の報告書を受け、「キャメロン首相はプーチン大統領を殺人者と考えるのか」と報道陣から質問された首相官邸報道官は「公聴会が見つけたことは明らかだ」とだけコメントしました。メイ内相は下院で「これは国際法や市民社会の根本的な原理に反する悪どく、許しがたい行為だ」と述べ、限定的な措置をとる考えを示しました。

これに対して、プーチン大統領の報道官は「報告書は英国流のほのかなユーモアだ」と鼻で笑いました。

「これは核テロのミニチュア版」

マリーナさんの弁護士は「この事件はロンドンの街で起きた核テロのミニチュア版だ」と厳しく非難します。

マリーナさんはこの日の記者会見で「主人が死ぬ間際にプーチン氏を糾弾した言葉がイングランドの法廷で証明されて、とてもうれしい」「私はロシアを嫌っているわけではありません。ロシアの人々のため、民主主義のため戦っているのです」「今度はキャメロン首相の番です。在英ロシア大使館を拠点にするロシアのスパイを即刻、国外追放することを要求します。経済制裁とプーチン氏、パトルシェフ氏を含めた渡航禁止措置を求めます」と話しました。

アナトリーさんは英国での学校生活になかなか馴染めず、フラフラする時期もありましたが、マリーナさんが「誇りに思う。彼の助けは非常に大きかった」と言うように、本当にしっかりした若者に成長しました。

日・中・露の三角関係

北方領土の返還問題を抱え、日本・中国・ロシアの三角関係の中でロシア接近を図らざるを得ない安倍晋三首相は「適切な時期をとらえて私の訪露、プーチン大統領の訪日を検討したい」と日経・FT共同インタビューに答えています。日経新聞の桃井裕理記者は「永田町アンプラグド」というコラムで「首相とプーチン氏はうまが合う」という政府関係者の言葉を紹介しています。

こんなことを言う政府関係者も、それをそのまま記事にする記者もどうかしていると筆者は思います。2006年11月にロンドンで何が行われたのか、一度、リトビネンコ事件の報告書を隅から隅まで読んで考え直してほしいものです。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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