【深読み「鎌倉殿の13人」】中川大志さんが演じる畠山重忠が源頼朝を討とうとした経緯
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」6回目では、中川大志さんが演じる畠山重忠が登場した。当初、重忠は平氏方に与し、源頼朝を討とうとした。その経緯を考えることにしよう。
■畠山氏とは
畠山氏は、桓武平氏の流れを汲む一族である。秩父重弘の長男・重能は、武蔵国男衾郡畠山郷(埼玉県深谷市畠山)を本拠とし、「畠山」を名字とした。これが畠山氏のはじまりである。
ところが、秩父氏の家督をめぐっては、面倒なことがあった。重能の父・重弘は嫡男であるにかかわらず、秩父氏の家督を継ぐことができなかった。秩父氏の家督を継いだのは、重弘の弟・重隆である。重能は家督継承の件について、不満を抱いていたという。
重隆の娘婿は、源義賢(義朝の弟)だった。こうして重隆は、武蔵に勢力を広げようとした。久寿2年(1155)、義賢を快く思っていなかった義朝は、子の義平をもって重隆と義賢を討たせた(大蔵合戦)。その際、義朝・義平父子に与同したのが重能だった。
重能は義朝に加担したものの、平治元年(1159)の平治の乱では平氏に与した。以降、武蔵が平氏の知行国になったこともあり、重能は平氏に従うことを余儀なくされたのである。重能は京都大番役を務めるため、上洛することもあった。
■畠山重忠の登場
畠山重忠が重能の子として誕生したのは、長寛2年(1164)のことである。重忠の母が三浦義明の娘だったことには、注意しておくべきだろう。
治承4年(1180)、源頼朝が以仁王の「打倒平氏」の令旨を受け挙兵すると、重忠はただちに平氏に従って、頼朝を討伐するため出陣した。その後、頼朝は石橋山の戦いで大庭景親の軍勢に敗れ、敗走した。
実は石橋山の戦いの際、三浦一族は頼朝と合流すべく出陣したが、あいにくの大雨で丸子川(酒匂川)を渡れず、合流は叶わなかった。石橋山の戦い後、重忠の率いる軍勢は、由比ガ浜で三浦一族の軍勢と遭遇した。
三浦方の和田義盛は、重忠の軍勢の前で名乗りを上げたので、一触即発の事態に陥った。ところが、双方は縁者も多かったため、和平を結ぶ雰囲気になった。にもかかわらず、和田義茂(義盛の弟)が重忠の軍勢に戦いを仕掛けたので、両軍が相乱れての交戦状態になった。
兵力は畠山勢が500、三浦方が300だったと伝わっている。結果、三浦氏は戦場を離脱し、本拠の三浦に這う這うの体で逃亡した。一方の畠山勢も50もの戦死者を出したという。
■衣笠城の戦い
同年8月26日、重忠は同じ秩父氏の一族である河越重頼に援軍を要請した。重頼は同じ秩父氏の一族である江戸重長とともに、援軍を率いて重忠の軍勢に合流した。その数は、数千に及んだという。三浦勢は少数だったので、勝敗はすでに明らかだった。
大軍となった重忠の軍勢は、満を持して三浦勢が籠る衣笠城(神奈川県横須賀市)を攻撃した。三浦勢はよく戦ったが、小勢なうえに先の逃走がこたえて疲労困憊だった。結局、三浦勢は戦うことを諦め、衣笠城を脱出したのである。
翌8月27日、畠山勢は衣笠城を落とした。城に籠城していた三浦義明は、重忠によって討伐された。先述のとおり、重忠は義明の外孫だったが、容赦なく討ち取ったのである。
89歳と老齢だった義明の死については、二つの評価がある。一つ目の評価は、義明が老齢だったため、三浦勢は足手まといになると考えて放置したという説である(『平家物語』)。
二つ目の評価は、義明が源氏累代の家人として頼朝にめぐりあったことを喜び、進んで命を捧げることで子孫の手柄にしたいとし、凄絶に戦死したというものである(『吾妻鏡』)。
後者は幕府側の史料の説でもあるので、やや誇張が過ぎるだろう。むしろ、前者のほうが実態に近かったのではないだろうか。とはいえ、10月になって、重忠は頼朝の配下に加わったのである。
■むすび
重忠は剛の者として知られるが、一方で音楽的な才能があったといわれている。源平の争乱でも大活躍したので、追々その姿を確認することにしよう。