地域安全マップ誕生から20年 でも、いまだに変だよ「子どもの防犯」
地域安全マップとは何か
今日は「地域安全マップ」の20歳の誕生日。
地域安全マップとは、犯罪が起こりやすい場所を風景写真を使って解説した地図である。
具体的に言えば、(だれもが/犯人も)「入りやすい場所」と(だれからも/犯行が)「見えにくい場所」を洗い出したものが地域安全マップだ。
だれでも楽しみながら「犯罪機会論」を学ぶことができ、その過程で「景色解読力(危険予測能力)」が自然に高まる手法として、2002年に筆者が考案した。
しかし今でも、家庭や学校では、子どもに「怪しい人に気をつけて」「知らない人にはついていかない」と言い聞かせ、「人」に注意するように促している。
つまり、場所に注目する「犯罪機会論」ではなく、人に注目する「犯罪原因論」の立場から教育しているのだ。
とても不思議である。道徳教育では「人は見かけで判断するな」なのに、防犯教育では「人は見かけで判断しろ」になっている。
交通安全教育でも「変なドライバーに気をつけなさい」と教えたりはしない。
今の教え方では、「親切そうな人」「知っている人」による誘拐や性犯罪を防げない。実際、千葉県松戸市の女児が誘拐され殺害された事件(2017年)では、通学路で見守り活動をほぼ毎日していた、だれもが「知っている人」が殺害犯だった。
それだけではない。「人」を疑えというやり方では、だれでも怪しく見えてきて、子どもは人間不信に陥る。子どもは大人を怖がり、大人から離れていき、助けてくれる大人も拒否するようになる。
一方、地域住民も、自分が不審者扱いされたくないので、子どもから離れていく。
また、不審者探しを続けると、差別や排除が生まれ、人権が侵害されてしまう。実際、間違った地域安全マップが多数作製され(実態は、不審者マップ)、そこには、知的障害者やホームレスが登場している(写真)。
もちろん、筆者が考案した地域安全マップは、「犯罪機会論」に基づいているので、そこには「人」は一切登場しない。
人はウソをつくが、景色はウソをつかない
そもそも、子どもを狙った誘拐の 8 割が、だまされて連れ去られたケースだ。
東京・埼玉連続児童殺人事件(宮﨑勤事件)も、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇聖斗事件)も、奈良女児誘拐殺害事件もそうだった。
したがって、子どもを被害者にしないために最も必要なのは、大声で叫んだり、走って逃げたりする練習ではなく、どうすればだまされないかを教え込むことである。
人はウソをつくから、人を見ていては、子どもはだまされてしまう。だまされないためには、絶対にだまさないものを見るしかない。それが景色である。人はウソをつくが、景色はウソをつかないからだ。
景色の中で安全と危険を識別する能力のことを「景色解読力」と呼んでいる。景色からのメッセージをキャッチできれば、危険を予測し、警戒レベルを上げられるので、だまされずに済む。
防犯のために注視すべきなのは、人ではなく景色なのだ。
こうした景色解読力を高める方法が「地域安全マップづくり」だ。
その基礎にある「犯罪機会論」は、犯罪者の動機や性格には興味を持たない。犯罪者がどんな人だろうが、犯行パターンには共通点があり、その共通点を抽出することに興味を示す。
その共通点を一言で表すと、犯罪者は景色を見て、そこが「入りやすく見えにくい場所」だと判断すれば犯行を始めるが、そこが「入りにくく見えやすい場所」だと判断すれば犯行をあきらめるということだ。
「入りやすい場所」とは、だれもが簡単にターゲットに近づけて、そこから簡単に出られる場所である。そこなら、怪しまれずに近づくことができ、すぐに逃げることもできる。
「見えにくい場所」とは、だれの目から見ても、そこでの様子をつかむことが難しい場所である。そこでは、余裕を持って犯行を準備することができ、犯行そのものも目撃されにくい。
ここで注意してほしいのは、マップづくりとはいうものの、実際には能力の向上という「人づくり」であって、正確な地図の作製という「物づくり」ではないということ。なぜなら、犯罪者は地図を見ながら犯行場所を探しているのではなく、景色を見ながら犯行を始めるかどうかを決めているからだ。
地域安全マップは、こうして生まれた
筆者が最初に、地域安全マップづくりに取り組んだのは、2002年9月9日、広島県三原市でのことだった。マップづくりは、立正大学文学部社会学科の必修科目「社会調査実習」として行われた。
当時、筆者が勤務する立正大学には、必修科目として、学外で行う調査実習があった。そこではアンケート調査を行うのが当たり前だったが、それでは犯罪機会論を生かせない。そう考えて、講義で学んだ犯罪機会論を学生たちに実践させる手段として、マップづくりを思いついた。犯罪機会を探して街を歩けばマップができ、それで立派な調査実習になると思ったのだ。
ただし心配なこともあった。大学生たちが、飽きずに街歩きができるのかが不安だったのだ。そこで苦肉の策として、調査が完了したら遊園地に行くことにした。馬の鼻先にニンジンをぶら下げたのである。
だが遊園地に着くと、学生たちは意外な行動に出た。レストランに閉じこもり、外に出てくる気配が一向にない。けげんに思って電話をかけてみると、皆で調査結果について議論しているというではないか。これには驚いた。そして気づかされた。マップづくりは、遊園地で遊ぶことよりも面白いのではないかと。
そこから地域安全マップの普及活動が始まった。学生たちを魅了する不思議な力があるのなら、子どもも大人も楽しみながら景色解読力を高められるに違いない。
そう思って今日まで、学生と二人三脚で、地域安全マップの魅力を全国各地でアピールしてきた。
2008年には、内閣総理大臣をトップとする政府の犯罪対策閣僚会議が策定した『犯罪に強い社会の実現のための行動計画』で採用され、現在では、小学校の教科書でも取り上げられている。
新型コロナが流行してからは、Googleストリートビューを用いたフィールドワーク・シミュレーションを開発し、オンラインでも「地域安全マップ教室」を開催できるようになった。
地域安全マップの効果
その結果、マップづくりに取り組んだ子どもの景色解読力が高まり、その子が犯罪に巻き込まれる確率が低下した。
例えば、大阪教育大学附属池田小学校では、マップの授業を、児童への事前と事後の調査によって検証し、危険予測能力の向上という学習効果があったと結論づけている。
また、文部科学省委託「学校安全総合支援事業」におけるモデル校になった新潟県上越市立里公小学校でも、マップの授業の前と後に、児童を対象にアンケート(意識調査ではなく知識調査である点が重要)を取り、児童の景色解読力が大幅に上昇したことが確認されている。
こうした効果が認められる一方、「地域安全マップは被害者を傷つける」という批判もある。「危険な場所になぜ行った」と責められるというのだ。しかし、これはおかしな理屈である。むしろ論理のすり替えと言ってもいい。
注意を怠った者を責めることになるから注意そのものをしないとは、何とも無責任な話だ。被害者が責められる可能性があるからといって、ライターを使った火遊びや工事現場でのかくれんぼを許したり、台風接近時の登山や海水浴を認めたりはしないだろう。
危険なことは危険だとしっかり教える安全教育と、被害に遭ったときの心のケアは別次元の問題だ。心のケアを理由に安全教育を否定するのは本末転倒である。
子どもの景色解読力を高めるのは、難しいかもしれない。しかし、だまされるのを防ぎ、同時に、人間不信やコミュニケーション阻害といった副作用を抑えるには、これしかない。犯罪者だって、子どもをだまそうと日々研究に没頭しているではないか。
何せ子どもの命がかかっている。それなのに、大人たちは、笑いを誘うような軽いノリで扱い、随分と悠長に構えている。
例えば、「いかのおすし」は、子どもならだれでも知っている防犯標語だが、その正体は大人が面白がる言葉遊びにすぎず、肝心の中身を正しく言える子どもはほとんどいない。あなたは言えますか?
やはり、子どもの視点に立った、真に役立つ教育が必要である。大人の「やっている感」で終わらせてはならない。
たとえ困難でも、発達段階に応じて算数や英語を教えるように、景色解読力も、少しずつ、でも確実に、そのレベルを高めていく努力をすべきではないのか。