「どうする家康」三方ヶ原の戦いで、粗相をした徳川家康の逸話は事実なのか
大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康が三方ヶ原の戦いで武田信玄と戦い敗れていた。家康は逃げる途中で脱糞したというが、それが事実なのか検討することにしよう。
元亀3年(1572)12月、徳川家康は武田信玄と三方ヶ原で戦い、大敗北を喫した。家康は急いで、居城の浜松城に戻った。その際のよく知られたエピソードが残っている。
三方ヶ原の戦いにおいて、家康は約1万の兵で、果敢にも約2万5千の武田軍に戦いを挑んだが、無念にも敗れ去った。家康は浜松城に逃げる途中、武田軍に恐怖したのか、馬の上で脱糞してしまったという。
人間はあまりの恐怖に晒されると、脱糞したり、失禁したりするのはよく聞く話である。しかし、みっともないのも事実である。家康は家臣から脱糞した事実を指摘されると、「それは糞ではない。焼味噌だ」と言い訳したという。この話は事実なのだろうか。
実は、似たような話が『改正三河後風土記』にある。同書は徳川家の初期の歴史をまとめた書物で、11代将軍の徳川家斉が成島司直に編纂を命じた。完成したのは、天保8年(1837)のことである。編纂過程から明らかなように、徳川家の悪いことは載せていない。
同書には、三方ヶ原の戦いの前哨戦にあたる一言坂の戦いの話を載せている。一言坂の戦いとは、元亀3年10月の遠江国二俣城をめぐる、信玄と家康との攻防戦で、家康は無念にも撤退した。
戦後、家康が浜松城に逃げ帰ると、家臣の大久保忠佐は家康の馬の鞍に糞が載っていることに気が付いた。忠佐は家康に対して、「糞を漏らして逃げてきたのですか?」と罵倒したという。
しかし、司直は、この日の家康は出陣しておらず、あり得ない話であると気付いた。そこで、この話は信用できないので、削除することにしたという(とはいえ、この逸話は同書に掲載されている)。
つまり、家康が脱糞したというのは、一言坂の戦いの話なのだが、それ自体も誤りだった。逸話だけは広まってしまい、どこかの時点で、家康が人生最大の敗北を喫した三方ヶ原の戦いにおけるエピソードとして広まった。
結論を端的に言えば、この逸話はまったくの事実無根で、根拠すら明確ではないのだ。家康をからかったような、単なる後世の創作に過ぎない。