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平成時代の日本野球は見事な国際化を果たした

横尾弘一野球ジャーナリスト
1997年のインターコンチネンタルカップで、世界一の座に就いた野球日本代表。

「日本人にとって、野球は国技と言ってもいいほど普及・発展してきた。だからこそ、集団球技としてバレーボールやサッカーのように、オリンピックの舞台でも表彰台に立つシーンが見たいと思ったんだ」

 社会人野球を統括する日本野球連盟で会長を務め、野球の国際化にも尽力した山本英一郎(故人)の言葉だ。平成の30余年は、野球をワールドワイドな競技に成熟させようとしてきた人たちの努力が、実を結んだ時代だったと言っていい。

 野球の世界一決定戦が初めて実施されたのは昭和13(1938)年。サッカー・ワールドカップが産声を上げた昭和5(1930)年とそう変わらない。だが、サッカーが13か国の参加で第1回大会を開催したのに対し、野球はアメリカとイギリスの対抗戦で、その後もアメリカ大陸諸国を中心に歴史を重ねていく。昭和40年代後半にヨーロッパやアジア勢が参加したことで、アマチュア野球世界選手権大会の規模が拡大すると、「次はオリンピックへの参加だ」という気運が高まる。

 野球大国を自負するアメリカと、世界選手権をリードしてきたキューバの主導権争いなどで一度は分裂した国際野球連盟も、国際オリンピック委員会(IOC)から「世界を統一する組織が2つもある競技は認められない」との通告を受け、昭和51(1976)年に再び統一。山本ら国際野球連盟の幹部はIOCに足を運び、野球のオリンピック参加に「4大陸、45か国・地域以上が国内連盟を有すること」という条件を取り付ける。

バルセロナ五輪から正式競技に

 ここから世界的に野球の普及活動が活発化し、日本はアジアのリーダーとして東南アジアを中心に指導者の派遣や用具の提供を続け、ようやく昭和59(1984)年のロサンゼルス五輪で公開競技に採用される。さらに、昭和63(1988)年のソウル五輪でも公開競技として実施されると、平成4(1992)年のバルセロナ五輪から正式競技となることが内定。ソウル五輪の翌1989年、すなわち平成元年から、日本はオリンピックでの金メダル獲得を目指した本格的強化に着手する。

 バルセロナ五輪までの日本代表監督に山中正竹(現・全日本野球協会会長)が就き、さっそく編成されたチームには、野茂英雄、潮崎哲也(元・埼玉西武二軍監督)、与田 剛(現・中日監督)、佐々岡真司(現・広島コーチ)、古田敦也(元・東京ヤクルト監督)ら将来性豊かな社会人が選出され、キューバとの対抗戦に3勝2敗と勝ち越し、7チームが参加したインターコンチネンタルカップでは準優勝を果たす。そして、この年のドラフトでは、8球団が1位指名で競合した野茂を筆頭に、多くの日本代表経験者が高い評価でプロ入り。日の丸を背負って活躍し、プロ入りを目指すという流れが作られていく。そうして、バルセロナ五輪では銅メダルを獲得した。

国際大会へのプロ参加が容認される

 ところが、この先には分岐点が待っていた。平成7(1995)年、近鉄との契約更改が難航した野茂が、メジャー・リーグ(MLB)への挑戦を決意し、ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶ。過去に村上雅則の例があるとはいえ、日本人がMLBで通用するのか、ファンやメディアは固唾を呑んで見守る。

ロサンゼルス・ドジャースの入団会見に臨む野茂英雄(ロイター/アフロ)
ロサンゼルス・ドジャースの入団会見に臨む野茂英雄(ロイター/アフロ)

 一方、社会人を中心とした日本代表は着実に力をつけ、平成8(1996)年のアトランタ五輪では銀メダルを手にする。そんな中、大会後の国際野球連盟総会で、国際大会にプロ選手の参加が容認される。日本やキューバは断固として反対したが、欧米諸国の数の力に押し切られた。

 なぜ、日本やキューバは国際大会へのプロ選手参加に反対したのか。国際大会で上位を占めるのはアメリカ、カナダ、メキシコ、キューバ、日本、韓国、台湾。共産主義下でプロスポーツを認めていないキューバを除けば、国内にプロ・リーグを持つ国と地域だけだ。オリンピック競技として成熟していくためには、ヨーロッパやアフリカ諸国にもメダル争いに加わる力をつけてもらうのが理想だった。しかし、プロ選手が国際大会に出場すれば、野球における先進国と発展途上国の実力差はさらに広がってしまう。そして、メダルを狙えない国は、野球の強化を次第に諦めてしまうと考えられた。

五輪はベストアスリートの世界一決定戦に

 ただ、その理想は現実的ではなかった。1984年のロサンゼルス大会を機に、オリンピックはアマチュアスポーツの祭典からベストアスリートによる世界一決定戦へシフトしていた。当然、野球が五輪競技であり続けるためには、ベストアスリートであるプロ選手の参加が必須だった。また、これから野球を普及させようとしている国の多くは、五輪競技であるがゆえに各国のオリンピック委員会(NOC)から支給される助成金で国内リーグを運営していた。もしも野球が五輪競技から除外され、助成金が打ち切られれば、自力で野球を普及させ、選手を育成するのは困難だった。

 そこに、MLBの戦略も絡んでくる。1994年夏から232日間のストライキにより、ファン離れが深刻だったMLBは、翌1995年の野茂の成功も契機として、世界戦略を進めていく。アジアやヨーロッパにもスカウト網を張り巡らし、10代を対象にトライアウトを実施するなど、アメリカ圏以外からも積極的に選手を発掘しようと試みる。

 特にオーストラリアやヨーロッパ諸国は、MLB傘下のチーム、あるいはMLB球団にサポートされた自国のチームで選手を育て、代表チームをも強化しようと目論む。それでも、事はそうスムーズには運ばない。2000年に開催されたシドニー五輪に、MLBはメジャー登録選手の出場を認めなかった。このことは、平成における日本の野球にも少なからず影響を及ぼすことになる。

プロ・アマ混成も4位に終わったシドニー五輪

 平成12(2000)年のシドニー五輪にプロ選手を出場させようとした日本は、その前年の同アジア予選にプロとアマチュアの混成チームで臨み、見事にシドニーへの切符を手にする。だが、ペナントレース中に開催されるシドニー五輪へプロ選手を派遣することは一筋縄にはいかない。セ・パ両リーグの考え方にも違いがあり、パ・リーグ球団は1名ずつを派遣したのに対して、セ・リーグからは2名。結果的にはプロのオールスター軍団で編成された韓国の後塵を拝し、ロサンゼルスから続いていたメダルも途切れてしまう。

プロ入り後にシドニー五輪へ出場した松坂大輔(アフロスポーツ)
プロ入り後にシドニー五輪へ出場した松坂大輔(アフロスポーツ)

 その結果を受け止め、平成16(2004)年のアテネ五輪では、長嶋茂雄が監督に就き、アジア予選からオールプロの日本代表を初めて編成。圧倒的な力でアテネの出場権は手にしたが、長嶋が病に倒れ、アテネでは銅メダルにとどまる。

 このように、夏季オリンピックをはじめ、春から秋の間に国際大会を開催しようとすれば、MLBを筆頭にした野球先進国のプロ・リーグは、戦力ダウンを承知でチームが主力選手を国際大会に派遣するか、リーグそのものを中断するしかない。日本は、多くの犠牲を払いながらも、できる限り力のある日本代表を編成しようとしてきたが、本場のMLBはそうはいかない。

「スター選手の契約は高額だ。たとえ国の威信をかけた試合でも、そこで故障やケガに見舞われないとは言えない。また、彼らのプレーを見たいファンは、国際大会の間に彼らのいないチームを応援したいと思うのだろうか。MLB選手の国際大会への派遣については、現状ではリスクが大き過ぎる。いずれにしても、現行の契約に国際大会に関する条件は盛り込まれていないのだから、話はそこから始めなければならない」

 あるMLB球団のゼネラル・マネージャーの考えは正論だった。野球が本当の意味で国際化するためには、まだまだ解決すべき問題がいくつもあった。

 しかし、その一方で、アテネ五輪が開催された平成16(2004)年は、野茂がMLBで鮮烈なデビューを果たしてからちょうど10年目。野茂の成功を見せられても、「投手に可能性があるのはわかったが、野手は難しいだろう」と語っていた評論家たちも、イチローや松井秀喜の活躍で何も言えなくなった。気がつけば、世界最高峰のMLBは日本でも当たり前のようにテレビ中継され、画面の向こうでは多くの日本人選手がファンやメディアの耳目を集めていく。

平成時代に野球は国際化を遂げたが……

 こうして、国際大会での経験をきっかけにした野茂が開いた扉から、野茂自身の2度のノーヒットノーラン、イチローのシーズン262安打というMLB新記録、松井のワールド・シリーズMVPなどが生まれる。今季の日本開幕戦をもってイチローは引退したが、これからは大谷翔平(ロサンゼルス・エンゼルス)や菊池雄星(シアトル・マリナーズ)、さらに彼らに続く選手たちによって、まだまだ印象的なシーンは生み出されていくだろう。すでにMLBは子供たちの夢から目標に変わっており、日本人が活躍する舞台として、平成年代に野球は見事な国際化を果たしたと言っていい。

投打の二刀流で、2001年のイチロー以来17年ぶりにMLBで新人王に輝いた大谷翔平(USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)
投打の二刀流で、2001年のイチロー以来17年ぶりにMLBで新人王に輝いた大谷翔平(USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 そういう時代になったからこそ、野球の国際化とは何なのか、何を目指すべきなのか、その中で日本の野球をどう発展させていくのか、令和年代には建設的な視点でイメージしなければならない。

 初めてMLB選手が出場する国際大会と話題になった平成18(2006)年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)で、日本は初代王者となり、平成21(2009)年の第2回大会では連覇を果たした。しかし、WBCは厳密には国際大会としての要件を満たさない部分もあり、まだMLB国別対抗戦の色彩が強い。

 周知の通り、平成20(2008)年の北京五輪で日本は再びメダルを逃し、2012年のロンドン五輪では野球が実施競技から外された。来年に迫った東京五輪で復活するとはいえ、2024年のパリ五輪ではまた除外される。野球を五輪競技にするために尽力した人、東京五輪で復活させようと動いた人の努力には敬意を表するが、現実的には五輪競技であることが世界的な野球の発展につながるのか、冷静に考えていくことが必要だろう。

 現在、日本はプロを頂点に各世代の日本代表が編成され、“侍ジャパン”の愛称の下で世界ランキング1位の実績を残している。これは、少子化とともに競技人口が減少傾向にあると言われる野球界にとって、一定の貢献をしていると思う。ただ、トップチームがアマチュアからプロに移ったことは、「世界で戦ってプロへ」という野茂のような選手を生み出す扉を閉じていることでもある。

 イチローが引退時に「個人的な感想」と断った上で語った、「オリンピックなど国際大会はアマチュアのものでいいのではないか」という見方をどうとらえるか。オリンピックには出られなくても、アマチュアによる世界選手権を復活させ、命がけで世界一を目指した先にプロがある――そして、プロはWBCを梃子にして野球の魅力を世界中に発信する。それでは、平成を超えて昭和に戻ってしまうと言う人もいるかもしれない。だが、これだけ日本人選手がMLBで活躍し、日本のプロ野球でさらに外国人を育成するシステムを築けば、令和の時代には、平成とは違ったアプローチで野球の国際化を先に進めることができるのではないかと感じている。

2019年3月21日に現役引退を表明したイチローは、会見で未来の野球界にいくつかの提言をした(ロイター/アフロ)
2019年3月21日に現役引退を表明したイチローは、会見で未来の野球界にいくつかの提言をした(ロイター/アフロ)

【この記事は、Yahoo!ニュース個人編集部とオーサーが内容に関して共同で企画し、オーサーが執筆したものです】

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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