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日本シリーズではたった3人の投手で日本一になったチームがある

横尾弘一野球ジャーナリスト
75回目となる日本シリーズは、横浜DeNAと福岡ソフトバンクの対戦で幕を開ける。

 福岡ソフトバンクと横浜DeNAがクライマックス・シリーズを突破し、今年の日本シリーズは圧倒的王者とリベンジャーズの激突となった。メジャー・リーグでは、レギュラー・シーズンに中4日で先発していた投手がポストシーズンで中3日になるのは珍しくない。かつては日本シリーズでも、その年の勝ち頭が第1戦に先発すると、中3日で第4戦、第7戦にも先発するのが主流だったが、1992年の岡林洋一(ヤクルト)を最後に、フル回転するエースは出ていない。ペナントレースと同様、第1戦の次は中6日で第6戦というケースが多く、それまでに決着すればエースがマウンドの上がるのは1試合だ。

 その是非はさておき、第7戦までもつれた昨年の日本シリーズでは、日本一になった阪神が17人、オリックスも14人の投手を起用している。そこで、日本シリーズで投手の最少起用数を調べると、何と3人が2回ある。

 1回目は、1952年の巨人である。プロ野球がセ・パ2リーグに分立して3年目、対戦した巨人、南海(現・福岡ソフトバンク)とも選手は40名ほどで、日本シリーズの登録選手も25名だった時代だ。巨人は第1戦に先発した別所毅彦が8安打3失点で完投勝利を挙げ、第2戦では藤本英雄が4安打完封で連勝する。第3戦でも三本柱の大友 工が先発で完投したが、打線が南海の柚木 進に完封されてしまう。

 第4戦では別所が2度目の先発を務め、6安打2失点で完投勝利。3勝1敗で王手をかけ、第5戦には藤本が先発するも、3回までに4点を失って降板する。ここで、水原 茂監督は大友を注ぎ込む。大友は期待に応えて追加点を防いだものの、打線が追いつけずに3勝2敗となる。そして、第6戦では中1日で藤本を先発に起用し、5回までを2対2で終えると別所を投入。6回裏に決勝の1点をもぎ取り、4勝2敗で南海を下した。南海がベンチ入りした9名中8投手を起用したのに対して、巨人も9投手を登録したが、水原監督は三本柱しか起用しなかった。

日本一になるためには信用している選手しか使わない

 2回目は1973年の巨人。川上哲治監督が率いて、9年連続日本一を達成した時だ。第1戦は、23勝で勝ち頭の高橋一三が先発するも、3対1とリードしていた8回裏に制球を乱し、2安打3四球で3点を献上して逆転負けしてしまう。続く第2戦は倉田 誠が先発したものの、1点リードの7回裏につかまって無死満塁とされる。連敗はできないと考えた川上監督は、第3戦に先発予定の堀内恒夫を注ぎ込み、延長11回に1点を奪って辛勝する。中1日を空けて本拠地の後楽園球場に戻った第3戦は、堀内が6安打2失点で完投した上に、2本塁打で投打に大活躍。長嶋茂雄を右薬指の骨折で欠いた打線にも、ようやくつながりが生まれる。

 第4戦は高橋一が2度目の先発を務め、7安打2失点で9回を投げ切る。打線も活発に援護して6対2で王手をかけ、第5戦には倉田が先発する。そして、序盤に3対1とリードを奪うと、7回のピンチに堀内がリリーフし、そのまま南海打線を抑え込んだ。

 この時の戦いを生前の川上に尋ねると、「日本シリーズを戦ってきて、いかに勝つかを突き詰めれば、その年のペナントレースを通して信頼できる投手しか使ってはいけないという結論に達した。だから、年々起用した投手は減っているはずだ」と振り返った。

 確かに、V9巨人の投手起用数は1970年が5人、1971年が6人、1972年が5人と他のチームに比べて少なく、1973年はとうとう三本柱しか使わなかったというわけだ。ちなみに、稲尾和久がフル回転して「神様、仏様、稲尾様」と言われた1958年の西鉄(現・埼玉西武)は、2対9で敗れた第1戦で5投手を起用し、第2戦でもう一人を起用したあと、第3戦以降の5試合では稲尾が4完投した。また、杉浦 忠の4連投で巨人にストレート勝ちした1959年の南海でも、第2戦までに杉浦を含めて5投手が登板している。たった3人の投手で日本一を勝ち取ってしまうとは、もう二度と観られない奇跡のような戦いなのだ。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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