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ドジャースがワールド・シリーズへ!! 43年前はヤンキースとこんな戦いを繰り広げた

横尾弘一野球ジャーナリスト
1981年はフェルナンド・バレンズエラの力投でドジャースがヤンキースを下した(写真:USA TODAY Sports/ロイター/アフロ)

 ナ・リーグ優勝決定シリーズ第6戦は、ロサンゼルス・ドジャースが10対5でニューヨーク・メッツに勝ち、4勝2敗で4年ぶりにワールド・シリーズ進出を決めた。ア・リーグはすでにニューヨーク・ヤンキースが15年ぶりの優勝を決めており、今季のワールド・シリーズはアメリカを代表する都市の人気チーム同士が対戦する。

 ドジャースとヤンキースの世界一決定戦は12回目で、120回の歴史を誇るワールド・シリーズでも最多の顔合わせだ。ドジャースのホームがブルックリンだったニューヨーク対決時代は6勝1敗とヤンキースが圧倒しており、ドジャースがロサンゼルスへ移転したあとは2勝2敗である。ただ、最後の対戦は1981年で、今回は実に43年ぶりとなる。では、43年前のワールド・シリーズはどんな戦いだったのか。

 1981年と聞いて、オールドファンはピンと来たのではないか。この年のメジャー・リーグでは、6月12日から7月31日まで50日間のストライキが実施された。そして、ストが終了した8月6日に、6月12日までを前期、7月31日以降を後期に分ける2期制が採用され、ポストシーズンでは、まず前・後期優勝チームによるディビジョン・シリーズが行なわれた。

 ア・リーグ東地区はヤンキースがミルウォーキー・ブリュワーズを3勝2敗で下し、西地区はオークランド・アスレチックスがカンザスシティ・ロイヤルズに3連勝。ナ・リーグ東地区はモントリオール・エクスポス(現・ワシントン・ナショナルズ)がフィラデルフィア・フィリーズを、西地区はドジャースがヒューストン・アストロズをともに3勝2敗で振り切った。さらに、優勝決定シリーズではヤンキースがアスレチックスに3連勝。ドジャースはエクスポスに3勝2敗でワールド・シリーズへ進出する。

 ニューヨークで幕を開けたワールド・シリーズは、第1戦を5対3、第2戦は3対0でヤンキースがものにして猛烈な勢いに乗る。のちに福岡ダイエー(現・福岡ソフトバンク)でもプレーするリッチ・ゴセージが2試合続けてセーブを挙げた。ロサンゼルスに戻って逆襲を目論むドジャースは、第3戦にフェルナンド・バレンズエラが先発する。

バレンズエラの力投で流れが変わる

 メキシコ出身のバレンズエラは1979年にドジャースと契約すると、翌1980年にメジャー・デビュー。この年は開幕投手の故障で代役を務めると完封勝利を挙げ、そのまま先発ローテーションに定着する。変則的なシーズンながら25試合に先発すると、8完封など抜群の安定感で13勝7敗、最多の180奪三振をマークし、新人王とサイ・ヤング賞に選出される。

 1回裏にロン・セイの3ラン本塁打でドジャースが先行するも、バレンズエラは2、3回と2点ずつを献上して逆転される。だが、トミー・ラソーダ監督が自らマウンドへ足を運んで励ますと持ち直し、5回裏には2点を取り返して再逆転。バレンズエラは147球で完投し、5対4でドジャースが1勝目を挙げる。

 すると、第4戦でも4点のビハインドを跳ね返して8対7と逆転勝ちしたドジャースは、第5戦は2対1と投手戦を制して本拠地で3連勝。ニューヨークに戻っても流れを渡さず、第6戦も9対2でヤンキースを下した。当時、バレンズエラの名前は日本の野球ファンにも知られるようになったが、日本人選手が当たり前のようにメジャー・リーグでプレーするようになってからは初めての名門対決だ。大谷翔平や山本由伸を応援するファンはもちろん、現代のメジャー・リーグ通にドジャースとヤンキースの対決はどう映るのか。注目の決戦は、日本時間の10月26日にドジャースタジアムで幕を開ける。

野球ジャーナリスト

1965年、東京生まれ。立教大学卒業後、出版社勤務を経て、99年よりフリーランスに。社会人野球情報誌『グランドスラム』で日本代表や国際大会の取材を続けるほか、数多くの野球関連媒体での執筆活動および媒体の発行に携わる。“野球とともに生きる”がモットー。著書に、『落合戦記』『四番、ピッチャー、背番号1』『都市対抗野球に明日はあるか』『第1回選択希望選手』(すべてダイヤモンド社刊)など。

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