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「素人同然」から始まった松井稼頭央のプロ野球人生

楊順行スポーツライター
1992年センバツでのPL学園・松井和夫(写真:岡沢克郎/アフロ)

 松井稼頭央の名前が知られるようになったのは、おそらく1996年の日米野球あたりじゃなかったか。

 ケガをした田中幸雄(日本ハム)の代役として、野茂英雄らを含むMLB選抜とのシリーズ途中から出場し、4試合で18打数10安打、打率・556と打ちまくった。なにしろこれは、日米野球史上の最高打率だったのだ。しかも、計5盗塁。当時巨人の松井秀喜に対して、西武の松井稼頭央は"リトル・マツイ"としてメジャーからも注目されるようになった。PL学園高からプロ入りして3年目のことである。

 当時取材したときには、こんなふうに語っていた。

「ちょっと前までは素人同然だったのが、最高の経験ができたと思います」

 素人? どういうことだろう。

「だってね、高校時代はピッチャーだったからバッティング練習は少ないし、走塁の練習なんかまるでやったことがないわけですよ。試合で塁に出たら"ベースにくっついとけ"といわれていたくらい(笑)。だからバッティングも、守備も、走塁も、野手として本格的に練習したのはプロに入ってからなんです」

 さらに、俊足を生かすためのスイッチヒッター転向も、96年の春からだ。

「最初のうちはもう、バットに当てるどころじゃない。内角のボールには反射的に腰が引け、のけぞってよけてしまうんです。ストライクなのに。右利きの人が左手で箸を使うようなものだったでしょうね。だから、素人同然なんです」

 やはりプロに入ってから転向したスイッチの先達・高橋慶彦(広島など)から、かつて聞いた話。まったくやったことがない左打ちだから、そこまで右打ちで振ったのと同じくらいの本数を振るしかないと思った。だから手の平のマメが破れ、皮がむけても、必死でバットを振った。むけた部分が空気に触れても痛いので、しまいにはバットを握ったまま寝たくらい……。一口にスイッチ転向というが、空恐ろしくなるほどのスイング量をこなさなければ、右打ちと同等の域にはとうてい達しないということだろう。

腕相撲でも負けるのは嫌い

 ともあれ、素人かどうかはともかくとして、松井のプロ野球人生はほとんどゼロから始まっているといっていい。

 プロ入りまでの野球人生を、ちょっと巻き戻してみる。東大阪市に育った松井は、リトルリーグ・若江ジャイアンツで野球を始め、中学時代もピッチャーで活躍してPL学園に進んだ。ストレートの速さ、陸上部以外には負けたことがない快足が自慢だったが、さすがPL、同期入学は体も大人並みで、中学時代は名の知られた逸材ばかり。さして実績のない松井にとっては、全員が「松井? だれや、それ」とこちらを見ているような気がする。

「なにしろ、自分が対戦して負けた相手ばっかりなんですよ。それも、ピッチャーばかり8人……僕なんか全国大会も出ていないし、正直"アカン"と思いましたね。でも、負けるのって腹立つじゃないですか。もともと僕は、子どものころから負けを認めたくない性格でした。言い争いしている途中で、相手に一理あるなと思っても、絶対降りない。学校で腕相撲がはやったことがあってね。僕はなにしろ負けたくないものだから、家で必死にトレーニングしましたよ。腕相撲といっても腕だけを鍛えればいいわけじゃなく、腹筋とか背筋も必要でしょう。そうやって鍛えたら強くなったので、今度はトレーニング自体がますますおもしろくなってくる。だからいまでも、好きですね」

 負けず嫌いの血が騒ぎ、PLでも"負けてられへん"としのぎを削るうちに、1年の秋にはエース番号1を獲得。たぐいまれな運動能力、瞬発力、脚力、筋力がものをいった。

 ただ、決して大きくはない体を酷使したツケか、大事な大会前ほど決まってどこかがパンクし、下級生のときはさほど目立った成績は残していない。92年のセンバツには出場したものの、ヒジ痛のため満足な投球ができずにベスト8で敗退している。ようやくエースの責任を全うしたのは93年、3年夏のことだ。大阪府大会のすべての試合に登板。ただこのときは決勝で3対6と敗れ、甲子園には出場できていない。

 3点をリードしながら、金城龍彦(元横浜など)のいた近大付に終盤逆転されたこの試合が、松井にとってひとつの転機となった。投手としては決して体格には恵まれていないし、ヒジ、肩、腰……とあちこちに爆弾を抱える。ピッチャーとしての松井は、限界を感じていた。毎年プロ野球選手を送り出していた当時のPL学園・中村順司監督も、「プロでやるなら野手」と進言し、その年のドラフトでは"野手・松井"として西武に3位で指名されることになる。

プロの打球はごっつ速い……

「ただ、やっぱり素人なんです。たとえば入団した年のキャンプ。フィールディング自体は好きだったんですよ。ピッチャーをやらないときはショートやセンターを守っていましたから。それでもね、プロの打球はごっつ速い。怖くて、どないしようかないう感じでした。1年目は、イースタンリーグで試合に出させてもらいましたが、エラーしまくりでしたね」

 とはいえその新人の年、7月には早くも、ファームの月間MVPを獲得している。つまりは、野手としてはゼロからスタートして半年で頭角を現したわけで、潜在能力の高さがわかる。2年目のシーズン途中から一軍に定着。3年目の96年には全試合に出場して・283の打率と50盗塁、そして日米野球での活躍だ。翌年以降は西武の顔として7年連続3割を記録し、盗塁王のタイトルも3回獲得。ベストナイン7回はパ・リーグの遊撃手として最多で、MLB時代の2007年には、コロラド・ロッキーズ創設以来初めてのワールドシリーズ出場に貢献してもいる。

 それにしても……プロ入り時の「素人同然」から、ワールドシリーズ出場を果たしたのは、おそらくこの松井だけじゃないだろうか。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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