元阪神の手嶋トレーナーが治療院をオープン 「伝えたいのは障害予防の大切さ」
昨年末で退団した阪神タイガースのトレーナー・手嶋秀和さん(37)が、このたびに西宮市浜甲子園1丁目で『甲子園スポーツトリートメント治療院』を開きました。オープンの1月6日には朝からお祝いのお花が次々と届き、玄関前やポーチ、待合室、受付、施術室…あらゆるところが鉢植えのお花などで埋め尽くされて、まるでフラワーガーデンです!私がお邪魔している間にも、チャイムの音とともに立派な胡蝶蘭がドーンと登場しました。
開院してから数日、予約の患者さんはもちろん、帰省先から戻ってきたタイガースの選手たちが訪れているようで、“手嶋花壇”のラインアップはまだ増え続けているかもしれません。自宅兼用である治療院には昨年末も一度お邪魔したのですが、今回は開院したばかりの施術室でお話を伺ってきました。退団に至った経緯や開院を後押しした偶然、プロ野球を目指す人たちへの思いなどを語ってもらっています。
まず新人合同自主トレが始まる日に、12年間ずっと阪神のトレーナーとして迎えていた新年の初仕事がないのはどういう感じですか?と聞いてみました。「違和感ありますよ。だって、“さあやるぞ!”って一番やる気に満ち溢れている日でもあり、“ああオフが終わった、はよ次のオフが来ないかな”と思う日でもあったので(笑)。でもキャンプ準備で頭がいっぱいの時期でした。忘れ物があったらどうしよう…ってことばっかり考えて」
なるほど、13年ぶりにそういう感覚のない自主トレ初日だったわけですね。
“開業”へ歩み出した経緯
鍼灸とマッサージの国家資格を持つ手嶋さんは「開業権(鍼灸院などを開く権利)があるんだから、それを使わない手はないだろう」と、いずれは開業することを視野に入れていたと言います。もともと野球を教えたい気持ちがあって始めた職業ですが「学校の体育の先生にならないと野球は教えられないと思っていた」そうです。でも、同じ専門学校を出た高校の先輩がJリーグのトレーナーをしているのを見て気づきました。「トレーナーという職業でも、野球は教えられるんだ」と。
「トレーナーには自分がケガでお世話になったこともあったし、そういう仕事をしながら野球を教えられるんだとわかったところからスタートしたので、最終的にトレーナーで終わるつもりはありませんでした。いつまでやろうという期限は決めていなかったですけどね。実は3年くらい前に、辞めようかなと思った瞬間が一度…。でも乗り越えました(笑)。当時は不満があった上で、辞めて別のことをやりたいという状況だったので、これはうまくいかないだろうと思った」
また、開業するという目標を定めたものの、いろいろな話をしたり聞いたりしていくうちに「まず“箱”はどうするか?どこか店舗を見つけるにもお金がかかる。そして何を売りにするのか?やってきた手と技術だけじゃもったいない。ということもあって踏みとどまった」そうです。
改めて、“箱”にお金をかけない方法はないかと考えた手嶋さん。「じゃあ家でやれば店舗代は要らないなと気づいた。地元の横浜へ帰り、実家近くでの開業を考えたけど、折り合いがつく物件がなかったんです。それでこっちに戻ってきて、今の関係性も崩さないで仕事をするんだったらタイガースの近く、甲子園の環境でやれたら一番いいんじゃないのかな~と考え直した、その次の日にこの土地が見つかったんですよ!」
2017年の8月、ファーム担当だった手嶋さんが残留練習で鳴尾浜にいた時の出来事です。「不動産情報をチェックしていたら、いい物件があって。表示金額を見る限り、きっと土地だけの値段だなと思ったんですけど、冷やかし半分で電話をしたら『これで家も建ちますよ』との返事で」。それはもう言うことなしですね。おまけに不思議な縁も重なり、一気に背中を押されます。
「鍼灸マッサージの店を開きたいんだという話をしているうちに、不動産屋の人が『阪神のトレーナーをされている手嶋さんですか?WBC行きましたよね』と。えっ、なんで?とビックリしていたら『僕、タイガースのファンなので。もしかして…と思って。今からその土地を見に行きませんか?』と声をかけてもらい、ここに来たんです。モデルルームも見に行って、その日に決めました。まず“箱”の件が片付いた」。とんとん拍子で問題をクリア!
今、ここで始める意義は
次に、知り合いの方から「自分ひとりでやるには単独で治せないこともあるから、信頼のおけるドクターとの提携ができた方がいい」というアドバイスをもらったそうです。「近隣の整形外科の先生と知り合いになっておけば、迷って相談した時に『それはお前のとこで治療すればいい』とか『これは外科的手術の方がいい』と答えてもらえる。そんな信頼できるドクターがいて、今後の医療はドクターを絡めた中に僕らが入っていけるシステムの方がうまくいく、と言われました」
そのアドバイスを受け「いいドクターとのつながりができるまでは待とう」と思っていたら、それもうまく消化できたのです。さあ準備は整った!2018年後半を迎え、その年限りで辞めるかどうか…というところで「矢野さんが1軍監督になって、僕も1軍へ戻ることに。ああ矢野さんとできるんだと思って」延期、2019年を最後と決めました。しかし昨年の9月末にも、まだ少し迷いがあったとか。後ろ髪を引かれたのは何だったのでしょう?
「選手とのかかわりはもちろんですが…監督も、ですかねえ。やっぱり矢野さんの力になりたいって思いがあったので。ましてやチームが嫌いなわけじゃないから」
それでも、決断しました。「“選手を救える方法は他にもある”っていうのと同時に、昔考えていた“野球を教えながら、プロ野球選手になりたい人たちを手がける”、この2本立てが、ここなら可能だという気持ちが強くなった。横浜でもできたんだけど、阪神の選手とは疎遠になるし、また一からのスタートになるじゃないですか。でもここは一からではなく、二から、いや三からスタートできる。やっぱりヨーイドンの時点で知っている人がいてくれるのは大きいですね」
葛藤、そして歯がゆさ…
ここまでは主にハード面の話ですが、チームのトレーナーとして働きながら抱えてきた思いもありました。
「ベテランやレギュラーの選手は試合に出て行かなきゃいけない人たちだから、我々もマッサージなどのケアに時間をかける。でも、そこまでいっていない選手の方が多いわけで。必死でやっていて、もうちょっとでレギュラーを取れるんだけど…という選手に十分な時間を割けないこともあった。それで治るのか、その時間しか使ってあげられなくていいのか、という葛藤を覚えたんです」
これは阪神に限ったことではありません。またプロ野球界だけのことでもないでしょうし、もしかするとスポーツ以外の世界にもあるだろうと思います。
手嶋さんは「この子たちが頑張るために時間を費やし、力を入れてあげれば、もしかしたら逆転するかもしれない。現状で試合に出ている選手のことはしっかりやらなくちゃいけない、でもここにも目を向けてあげたい…となった時に、歯がゆさがあった。もちろんチームとしては、そうせざるを得ない。というより、そうしなきゃいけないと思っています。今でも。何より現状で出ている選手が優先なので」と言い、こう続けました。
「ただ、常時ゲームに出られないでいる選手のこともどうにかしてあげたくて。じゃあ自分でやった方がいいかなと」。そして、この決断に至った大きな要因がもう1つ。「アマチュアの野球を教えたいという、昔の気持ちを思い出したこと」です。
大切なのは障害予防!
「少年野球、シニア、ボーイズ、高校生が、もう1つ頑張ってプロ野球を目指すところで、ケガをしない、障害予防ができるというノウハウがあれば、この子たちはケガを持ったままプロ野球に行かなくて済むんですよ。言い換えれば、有利だと思うんです。でも“ケガ持ち”でプロに行っちゃうと、林威助選手みたいに歩行練習から始まる。そのころ僕はまだ阪神にいなかったけど、話は聞いていましたからね」
現在は台湾プロ野球・中信兄弟の2軍監督を務める林威助さん。昨年のウインターリーグで台湾プロ野球選抜チームの指揮を執る姿をご覧になった方も多いでしょう。2002年のドラフト7位で阪神に指名されて近畿大学から入団しましたが、痛めていた膝のリハビリで1年目は試合出場なし。鳴尾浜で本隊と離れ、ただ黙々と歩いていた姿をよく覚えています。
「あんなにすごい選手が本当にもったいない。いい選手はケガなく上がってこなきゃいけないんです!そうなった時に、僕が見てきたことを伝えてあげられたら」と手嶋さん。「プロ野球選手はこんなことをやっているんだよ。自分の体に対して、もっと厳しくしないと。頑張っているって?いやいや、プロ野球選手はもっともっと頑張っているんだからと教えてあげたい」
「今のプロ野球選手って、筋肉についてとか、ケガについても詳しいんですよ。僕らより詳しい。サプリメントのことも栄養のことも。みんなプロに入ってから、うまくなるにはどうすればいいかを考えて、本を読んだりネットから引っ張ってきたりして学んでいる。それを思うと、まだアマチュアは甘いかなと」
島本浩也投手は何年目からか、プロテインやサプリメントで体を大きくしましたね。今の活躍はそれも影響しているでしょうか?「島本は途中で気づいたからよかったんですよ。気づかないで辞めていく選手はいっぱいいる。育成はしつけ、教育。小さい頃からできていると困らない。プロに入ってからではなく、もっと前から育成ができていたら自立した選手になれる」
「そういう人がひとりでも多くプロ野球選手になれたら、3年で1軍に上がろうってのが2年になるかもしれない。プロ野球のトレーナーをやっていたからこそ伝えられることは、いっぱいあるんじゃないかなと思います」
経験則と専門知識の両サイドで
野球を教えるというのは具体的にどういうこと?「全部です。動作も教えたいし、ケガをしないためにというのも含めて。経験則では当然、僕らはプロ野球のコーチたちに勝てないんですよ。でもその経験則をいっぱい聞いたうえで、今度は体の仕組み的なことからも話せるじゃないですか。両サイドから言えるのが一番いいと思う。小さい子たちに“その先に待っているのは明らかにケガだよ”ということを、動作の点から見てあげることができれば」
治療する際にも、肩が痛いと言ってきたら必ずシャドーピッチングをさせるそうです。それを見ながら、手嶋さん「もともと腕は低いの?」、患者さん「いえ上から投げているつもりなんですけど」、手嶋さん「でも肩が下がっているよ。何が原因だと思う?」という会話をすると聞きました。
「これって、肩が下がっているんじゃなくて上がってこない理由があるんだと説明します。左の股関節が硬くて入ってこないから手が上がらないとか、開いちゃって体が逃げるから手が横になるとか。そうしたらリリースはバラバラで、ボールも見やすい。球速が出ても打たれるよ。治療しながら話をします。どう噛み砕いて伝えるかというのも、こっちの勉強になる」
「野球をやってきたので、野球をいっぱい教わってきたんですよ。選手やコーチから。それが僕の財産なんです。伝えるための引き出しはたくさんあって、あの選手はこうだけど君には合わないとか、あの選手の方がいいかも、とかね。この12年間で何がよかったって、選手たちに野球を教えてもらえたことでしょう」
球団記録の並んだ原口選手のバット
治療院に置かれた野球用具の中で使用済みの、しかもグリップ部分にテープを巻いたバットが1本あります。テープは真ん中あたりだけに重ねて巻き、他のところより高くしたもの。年末にお邪魔した際も聞いていたのですが、改めて詳しく教えてもらいました。これは原口文仁選手の、あのタイ記録達成をアシストしたバットです。
2018年9月6日の広島戦(マツダ)で原口選手が放った2号3ランは、代打でのシーズン22安打目。桧山新次郎選手が持つ球団記録まであと1本と迫るものでした。しかし同14日のヤクルト戦(甲子園)で左手に死球を受けてしまいます。どう見ても当たっているのに本人は痛くないふりをし、翌日以降の試合にも出ようとするも、1週間後に登録抹消。第5中手骨骨折と診断されました。
「抹消後、病院へいった翌日に原口が鳴尾浜へ行った時、みんな『大変だったな』『残念だな』と言われて、2人とも“はあ?”と思いました。ふざけんなよ、終わってねえよ!って。原口も諦め悪いですしね(笑)。とはいえ、腫れが引いたあと本人は半信半疑だったかも。いけるのかなあ、もしかしたら無理かなと、どこかで思っていたはず。でも僕はイケイケでした!」
なるほど、支えたのは本人より前向きだった手嶋トレーナーですね。「やらせてあげないと、むごいんですよ。記録がかかっている。あと1本の」。そこで2人の試行錯誤が始まりました。グリップにテープを巻いて、原口選手は使えない薬指と小指を浮かしながら握り、“痛くない”ところを探ります。これならいける!というポイントにたどり着いたのが、写真のバットです。
数日が経ち、手嶋さんいわく「ファームの練習で打てなかったらダメと、決断しようと考えていた。でも前日の様子を見ていて“いけるな、振れるな”と思った」とのこと。その決断を下す当日、矢野監督とバックネットで見ている時に「どう思う?」と聞かれて「止められません。だって、こんなチャンスないでしょう。記録を狙える。来年また来るチャンスじゃないですよ。少々のことならいかせてあげたいと思います」と熱弁をふるったそうです。
「しかも、そのフリーバッティングで原口はホームランを3本くらい打ったんですよ!矢野さんも『止める理由はないなあ』と1軍に報告してくれた」。やがて原口選手は驚異のスピードで1軍に復帰し、10月5日の中日戦(甲子園)で球団記録に並ぶ代打安打を放ちました。
13日で復帰というのはビックリでしたねえ。「本当は12日間で戻すつもりだったんですよ。チーム事情で13日になったけど。いや~ありえないです!僕も自分で骨を折った時は2か月半かかっていますから」。最終的に新記録達成はかなわなかったけれど、このバットと、復帰即ヒットを放った本人の精神力と、そして手嶋さんのイケイケが…失礼、熱い思いがもたらした1本でしょう。
「選手の復帰はやはり嬉しいもの」
今と昔で、ケガや故障に変化はありますか?と尋ねたら「昔に比べて、ケガが治るスピードは速くなっていますね、でも、絶対にいけないのは再受傷。いわゆる2回目のケガ。これはリハビリの掟です」と手嶋さんは力を込めました。確かに、昨年も何人かいましたね。まもなく復帰という段階で後退してしまった選手が。
「上がってきて落ちるというのが多かった。上がっていく段階で落ちるんだったら、(上げる角度は)緩やかでいいんですよ。本当は落ちない方がいい。高橋遙人は落ちなかったでしょう?2回目のケガがなかった。あれは成功なんです。だからそういうリハビリを組まなきゃいけない」。選手は焦っているから、どんどん先をやりたい。でも我慢させることも時には必要なのですね。
そして「やっぱり復帰は嬉しいです。狩野がヘルニアから戻った時、望月が1軍で投げた時、原口が骨折から復帰した時、腓骨骨折で歩けないと言っていた糸井さんが3週間で戻って、その日にホームランを打った時。狩野は山下(幸志)さんがやっていた時代ですけど、3人は携わっているので。あとは(高橋)遥人が1軍で投げた時も嬉しかった。あ、横田もです!毎日ノックを打ちましたからね」と、思い出して笑顔になった手嶋さん。
2017年2月の安芸キャンプで、横田慎太郎選手が初めて屋外でのフリー打撃をした時は本当に嬉しかったと、そこで柵越えが出て思わずガッツポーズをしてしまったという話は以前もご紹介しました。残念ながら横田選手の復帰はかなわず、トレーナーの方々は「自分たちは何もできなかった」と無念の思いを口にされましたが、昨年9月の引退試合は紛れもなく“横田外野手の復帰”だったと、私は思っています。
最後に「キャンプには行きたいですねえ。選手が気になるので。宜野座も安芸も」と手嶋さんがつぶやきました。左ヒジ手術からの復帰を目指す島本投手や、今季さらなる飛躍が期待される高橋投手をはじめ、多くの名前が出てきます。1軍を目指す選手たちを何とかしてあげたい。またプロ野球の世界が目標の子どもたちをケガから守りたい。何よりも野球そのものを教えたい。手嶋さんの夢が今、スタートしました。
<掲載写真は筆者撮影>