そもそもカシミール問題はなぜ存在するのか? カシミールを手放せない、印パの歴史的背景とは?
インドとパキスタンが領有権を争うカシミール地方のインド側で、男性が検問所で兵士に射殺されるという事件がおきました。
インドは2019年10月に、ジャム・カシミールの自治権を剥奪した後、州を分断して東部をラダック連邦直轄領、西部をジャム・カシミール連邦直轄領として、連邦政府による直接統治下に置きました。インドにおける連邦直轄領は、一般に「政治的混乱の防止」を理由に置かれます。多民族国家であればこそ、「政治的混乱」が発生しやすく、インドにおけるそれは、多くが民族問題です。今回は、カシミールにおける「政治的混乱」についてまとめてみます。
今回まとめた「カシミール問題」について、私のYouTubeチャンネルに動画でまとめたものもございますので、よろしければご覧ください。
▼【5分くらいでわかる地理】#008 カシミール問題「なぜ印パは争う!? カシミール地方の領土問題と宗教との関係とは?」
1.印パの分離・独立とカシミール藩王国の去就
かつて、インドは200年にも及ぶイギリス植民地を経験しました。
第二次世界大戦が終わると、1947年8月にインドとパキスタンはイギリスから分離独立しました。このときの「パキスタン」は、西パキスタン(現在のパキスタン)と、東パキスタン(現在のバングラデシュ)を含む地域です。
イギリス植民地時代のインドには、イギリスが直接支配をしていたムンバイ、マドラス、コルカタなどの地域を除くと、実に664もの藩王国(Princely States)がありました。イギリスは藩王国を治める各藩王にイギリス王室への忠誠を誓わせ、間接的に藩王国を支配していました。藩王国を治める藩王は「ラージャ」とよばれ、特に強大な権限をもっていた「ラージャ」は「マハーラージャ」と呼ばれました。日本では「マハラジャ」といわれることがある用語です。
インドが独立する過程で、マハトマ・ガンディー、ジャワハルワール・ネルーなどが中心となった国民会議派は、インドは異なる宗教をすべて一緒にして一つの国として独立することを主張しました。しかし、ハメッド・アリ・ジンナーが率いるムスリム連盟(Muslim League )はイスラーム教国家の分離・独立を主張しました。その後、交渉が進むにつれ、両者の対立は決定的なものとなっていきます。
イギリスは、イスラーム教徒が多数居住する東ベンガル(現在のバングラデシュ)、西パンジャーブ、シンド、バルチスターン、北西辺境の地域をパキスタンとします。そして残りの地域をインドとして独立する案を提示したところ、国民会議派、ムスリム連盟ともにこれに同意しました。余談ですが、「PAKISTAN」とは、各地域の頭文字を繋げて出来た国名で、パキスタンの名前の由来となった地域が含まれています。「K」はカシミールを意味します。
イギリスがインドに対する宗主権を放棄するさい、664もの藩王国に対してはインドとパキスタンのどちらに帰属するかは各藩王の裁量に任せるとしましたが、インドに近い藩王国はインドへ、パキスタンに近い藩王国はパキスタンに帰属するよう強く推奨しました。しかし、ハイデラバードとジュナガル、カシミールの3つの藩王国は、それぞれの帰属が未決定のまま、印パ両国の独立の日を迎えました。ハイデラバードはイスラーム教徒の多い藩王国でインドからの独立を希望しました。ジュナガルは住民の多くがヒンドゥー教徒でありましたが、藩王がイスラーム教徒だったこともあり、パキスタンへの帰属を希望しました。そしてカシミールは住民の多くがイスラーム教徒でありましたが、ヒンドゥー教徒であった藩王は独立を希望しました。パキスタンはこれに応じましたが、インドが応じなかったため、帰属未決定となりました。
結局ハイデラバードとジャナガルの両藩王国については、独立後にインドの武力行使によってインドへ統合されました。ハイデラバードの藩王は帰属に応じ、ジャナガルの藩王はパキスタンに逃亡しました。
2.第1次印パ戦争の勃発と国連の調停
カシミール地方では、1947年10月、パキスタンが揺さぶりをかけてきました。これは、パキスタンにいるパターン族(イスラーム教徒)の暴徒をカシミールに侵入させ、藩王にパキスタンへの帰属を求めたのです。暴徒化したパターン族は、カシミールの中心都市スリナガルの近郊にまで達したため、危機に瀕したカシミール藩王ハリ・シンは、インドのネルー首相に援軍の提供を求めました。
これに対し、ネルー首相が答えます。
「インド領ではないカシミールに、インドの軍隊を派遣できない。インド軍の派遣を望むなら、カシミールのインドへの帰属を暫定的でも良いから表明すべきである。正式の帰属については、事態が収束した後に、住民投票で民意を確認するべきである」
藩王はその案に従い、直ちにカシミールのインドへの帰属を明示した文書を提出します。それを受けて、インドはカシミールに援軍を送ります。これを機に、パキスタンも軍隊をカシミールに派遣します。この衝突が第1次印パ戦争の発端となりました。
戦局はインド有利に動きました。そして1948年1月1日、インドは国連安全保障理事会にパキスタン軍の介入は不法であると提訴しました。しかし同じく1月、15日になるとパキスタンが同理事会に「カシミールのインドへの帰属は無効であること」、「インド軍の介入は不法であること」として逆提訴しました。このため、国連安保理は紛争の調停機関として「インド・パキスタン国連委員会」を設置し、この委員会がその後約1 年にわたり紛争の解決に当たりました。12月になると、停戦、撤退、住民投票の3つから成る合意が成立し、翌年1月1日に停戦が決まりました。
しかし、停戦は実現したものの、仕掛けたパキスタンの軍隊が先に撤退しないことを理由にインド軍は撤退せず、これによって両軍が停戦ラインに沿って対峙する緊張状態が続くこととなりました。実効支配は停戦ラインを挟んでカシミール全体の東側5分の3がインド、また西側5分の2がパキスタンとなりました。
パキスタンは、カシミール問題の解決策として住民投票の実施を主張し続けています。これに対しインドは、カシミールのインドへの帰属を既成事実化させようと、1965年11月、ジャム・カシミール州議会に、同州がインドの一部であることを明確にした州憲法を採択させます。以来、インドはジャム・カシミール州のインドへの帰属は決定済みで、パキスタンが主張するような住民投票の必要はなく、パキスタンこそがカシミールの一部を不法に占拠していると一方的に主張するにいたりました。
なお停戦成立後、カシミール地方におけるパキスタンが支配する地域は、アーザード・カシミール(自由カシミール)と呼ばれていましたが、現在は同地域の大部分が北方地域と改められ、停戦ラインの南端の細長い部分だけがアーザード・カシミールと称されています。
3.第2次印パ戦争の勃発とソ連の介入
インドとパキスタンの関係はカシミール問題をめぐって長らく緊張状態が続き、関係改善のめどが一向にたちませんでした。その間、国連はもとより、イギリスやアメリカ合衆国、ソ連などの主要国がそれぞれ単独でカシミール問題解決のための調停を試みますがいずれも失敗に終わりました。
また1950年代後半になると、中国とソビエト連邦の対立が顕在化していました。そしてソ連はインドを支援し、中国はパキスタンを支援したため、印パの対立は中国とソ連の代理戦争のような状況となっていきます。これによってインドと中国が対立するようになり、1959年になると両国は国境線を巡って大規模な武力衝突へと発展しました。1962年、これに勝利した中国はインドとの国境線をインド側に進め、以後カシミール地方のアクサイチン地区は中国によって実効支配されています。ラダック連邦直轄領のすぐ東側に位置しています。
そして1965年8月になると、中国がアクサイチン地区の実効支配を完成させた影響で、パキスタンもカシミール地方へ武装集団を送り込みました。インドはこれに応戦し、第2次印パ戦争が勃発しました。しかし翌年には国際連合の仲裁で停戦が合意されました。1966年になると、ソ連の仲介で和平会談が開催されると和平のための合意がなされ、カシミールは再び、停戦ラインに沿って印パ両軍が対峙する緊張状態となりました。
4.第3次印パ戦争の勃発とインドの優位確立
印パ両国は政治的にも軍事的にも、対等の立場を保っていました。しかし、1971年12月の第3次印パ戦争によって、インドのカシミールでの、ひいては南アジアでの優位性が確立していきます。
第3次印パ戦争は東パキスタン、現在のバングラデシュがパキスタンからの分離独立運動がきっかけでした。西パキスタン(現在のパキスタン)と東パキスタン(現在のバングラデシュ)は、ともにイスラームを信仰する住民が多く居住する地域でした。しかし、パキスタンの言語はウルドゥー語、バングラデシュの言語はベンガル語であり、元々異なる民族同士が一つの国に混在している状態でした。経済的実権はパキスタンが握っており、バングラデシュに対する優位性を保っていました。
そんな中1970年11月に大規模なサイクロンが東パキスタンを襲います。少なく見積もって20万人、多くて50万人にものぼる死者を出したといわれています。バングラデシュは、ガンジス川河口のデルタ地帯に位置する国で、サイクロンとモンスーンによる雨季が重なると、洪水被害が拡大しやすい場所です。1991年4月に上陸したサイクロンでも、14万人もの大量の死者を出したといわれています。現在では世界各国の経済援助によってサイクロンシェルターが建築され、その数は2000を超えるそうです。2007年11月にサイクロンが上陸したとき、そのおかげもあって死者数は3363人と激減しました。
さて、1970年のサイクロン上陸に際し、西パキスタンは無策でした。これに対して東パキスタンの不満は頂点に達し、東パキスタンは西パキスタンからの分離独立を模索しますが、西パキスタンはこれを武力で阻止しようと軍を差し向けました。これによって発生した難民の多くがインドへ流出します。これに対してインドは、東パキスタンの分離独立に介入し、パキスタンとの全面戦争が始まります。これが第3次印パ戦争です。インドはこれに勝利し、カシミール、ひいては南アジアでの優位性を獲得し、東パキスタンはバングラデシュとして独立しました。
また1960年代、中国は先述のようなソ連だけでなくアメリカとも対立しており、それがきっかけで核保有国となっていました。これに危機感を抱いたインドは1974年5月に地下核実験を行い、核保有を宣言し世界で6番目の核保有国となりました。これもまた、パキスタンに対する優位性を示す要因の一つとなりました。しかし、これに対抗してパキスタンも核開発を進めます。結果的に「核の抑止力」となり、4度目の印パ戦争は回避されました。
以後、カシミールは、停戦ラインを印パが尊重するということとなり、カシミール問題は印パ両国の問題とされました。パキスタンは国際紛争であると国際社会に訴えられなくなり、パキスタンにとっては大きな痛手となりました。その後もカシミールでは印パ両軍の衝突が続いています。最近では、インド領カシミールのインドからの分離独立を主張するイスラーム教徒がテロ行為を起こしており、インドはこれをパキスタンによるテロ支援で非難し、一方のパキスタンは、インドの治安部隊によるカシミール住民に対する人権侵害であると非難し、泥仕合の様相を呈しています。そのため世界の主要国はカシミール問題の解決には消極的となっています。
5.カシミールを手放せない印パの事情
インドとパキスタンのそもそもの対立要因は民族問題、ひいては宗教問題です。
パキスタンの国民のほとんどがイスラーム教徒であるのに対し、インドはヒンドゥー教を信仰する人が国民の約80%といわれています。つまり、ヒンドゥー教以外の宗教を信仰する者はわれわれが想像する以上に多く、国民の約13%がイスラームを信仰しています。これは実数にすると、約1億7000万人ものイスラーム教徒がインド国内にいることとなります。
そのため、イスラーム教徒が多数居住するインド領カシミールが分離独立したさい、インド国内のイスラーム教徒に火が点き、国内のあちらこちらで分離独立の狼煙が上げられる危険性があります。だからこそ、インドはカシミールを直轄領として監視を強化していると考えられます。
一部の少数民族の独立を認めると、その他の少数民族が「俺たちも独立だ!」となりかねません。だからこそ、世界中のいたるところで、少数民族の独立運動は簡単には認められていません。これは中国がチベット自治区とシンチャンウイグル自治区の独立を認めないこと、ロシアがチェチェン共和国の独立を認めないことと同じ理屈といえるでしょう。もちろん他国の少数民族の独立運動を認めると、「俺たちも独立だ!」と、自国の少数民族の鼻息が荒くなります。自国に少数民族の独立運動を抱えている国こそ、他国の少数民族の独立運動に対しては消極的な姿勢にならざるを得ないといえます。