マリ共和国でクーデター発生! トゥアレグ民族とイスラーム過激派の存在、そして政府軍内部の不満とは?
1.マリ共和国でクーデターが発生
8月18日朝、マリ共和国軍の兵士による武装蜂起が発生しました。場所は、首都バマコから北西およそ15キロに位置するカティという都市にある軍事キャンプでした。
BBCによれば、今回のクーデターは、カティの軍事キャンプのナンバー2である、マリク・ディアウ大佐とサディオ・カマラ将軍が主導したとのことです。反乱軍は首都バマコに侵攻して、交通の要所を封鎖したほか、大統領公邸を襲撃し、イブラヒム・ブバカル・ケイタ大統領やブブ・シセ首相、大統領のご子息、国会議長など政府要人を拘束したとのことでした。
翌19日には拘束されていた大統領は国営テレビにて辞任の意向を表し、国会の解散と内閣総辞職と合わせて発表しました。
大統領は演説で、
「自分が権力を維持するために、多くの血が流れることを望んでいない」
と述べました。
これに対して、在マリ日本国大使館は19日0時現在、反乱の発生直後から在留邦人の安否を確認し、在留届提出済み邦人の安全を確認しています。
今回のクーデターに対して、アフリカ連合(African Union)、西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)、国連事務総長は強く非難し、また周辺諸国も批判の声を上げました。特にECOWASは、加盟国14か国がマリとの国境を閉鎖し、すべての資金の流れを止めるだけでなく、マリを追放すると声明を出しました。
日本国政府は、「マリ情勢に関するすべての関係者に対し、憲法に基づく秩序を早期に回復し、暴力を停止し、今後の騒乱の平和的解決に向け努力するよう呼びかける」と声明を出しました。
2.マリ共和国とは?
マリ共和国とは、西アフリカに位置する内陸国です。現在においてもそうですが、金の産出が豊富で、これがムスリム商人との交易を盛んにしてきました。そして多くの国民がイスラームを信仰しています。その後はフランス植民地となり、1960年に独立します。そのためフランス語を公用語とする国です。
マリの「1人あたり国民総所得」は770米ドル(2017年)であり、世界最貧国の一つとなっています。しかし、金の埋蔵量が多く、また綿花の栽培も盛んに行われています。輸出統計をみると、最大輸出品目は「金(非貨幣用)」で、65.9%を占めています(2017年)。また綿花の輸出も盛ん(7.0%)です。
しかし、綿花に関しては2003年6月にブルキナファソやベナン、チャドとともに、WTO貿易交渉委員会にて「綿花イニシアチブ」を提案しています。
提案の内容は、
- 綿花は、4か国の貧困削減や経済発展において重要であり、本来、これらの国では競争力のある産業である
- 一部の先進国が先進国の生産者に補助金を与えていることから、綿花の国際価格が下落し、提案国の綿花産業は危機に直面している
- 先進国の補助金の撤廃と撤廃が完了するまでの機関の補償を要求する
というものでした。
「一部の先進国」がアメリカ合衆国を指しているのは明白です。
金(非貨幣用)への経済依存が高くなっていますが、これを安定して採掘するには国内の政情の安定が必要不可欠です。
3.8年前のクーデター
8年前、マリは国家分断の危機に陥るクーデターを経験しています。
時は2012年1月17日、マリ北部で独立を求める武装勢力、アザワド解放民族運動(MNLA)がマリ共和国軍基地を攻撃して、マリ史上、4度目のトゥアレグ民族による抵抗運動が勃発しました。同じ年の3月には首都バマコで国軍によるクーデターが発生し、当時のアマドゥ・トゥマニ・トゥーレ大統領が失脚します。このときのクーデターは、MNLAと戦う国軍兵士たちが「国を守るための武器の不足」や「政府にはテロリストと戦う能力がない」ことを理由に起こしたものと説明されています。
特に、カティの軍事キャンプを訪れたサディオ・ガサマ国防相(当時)が「弾薬の補充」の要求に色よい返事をしなかったことに対して、軍の下士官が空砲を撃っての抗議が引き金となったようです。
こうした政府内の混乱に乗じ、4月になるとマリ北部にてMNLAが独立を宣言しました。このときMNLAと協力関係にあったのがイスラーム過激派でした。勢力を増したMNLAはマリ北部を支配下におき、マリは国家分断の危機に陥ります。
その後、2015年には政府と独立派の和平合意が成立して、マリの国家分断の危機は免れましたが、このときの紛争によって多くの避難民や難民が生まれました。地域経済は破綻し、小さいながらも各地で抗争が絶え間なく続いていきます。現在も収束していません。これに乗じて、イスラーム過激派のテロリスト集団による国境を越えた犯罪が増えたといいます。
4.トゥアレグ民族による抵抗運動
マリ共和国北部には、トゥアレグ民族という遊牧民が生活しています。信仰する宗教はイスラームです。彼らは、かつてはサハラ交易を行っていました。もともとサハラ砂漠には国境が引かれていたわけではありませんので、北アフリカの広い地域で生活をしていました。しかし、アフリカ北部の国々が独立を果たすと、トゥアレグ民族はマリ、ニジェール、アルジェリア、ブルキナファソなどの国々に分かれていきました。
イギリスしかり、フランスしかりですが、旧宗主国は民族分布を無視して先行境界を引いて統治します。後にそれが国境となると、独立後に民族のモザイク状となり、多民族国家として「紛争の火種」を抱えることとなるのです。
マリ共和国がフランスから独立したのは1960年6月のことでした。独立時は隣国のセネガルと「マリ連邦」としての独立でしたが、同年8月にはセネガルが連邦から離脱したため、9月にマリ共和国として再スタートします。
独立直後からトゥアレグ民族の抵抗運動が始まり、1962年から64年にかけて、第一次トゥアレグ抵抗運動が勃発しますが、これはマリ共和国軍によって鎮圧されました。このときに発生した難民の多くがリビアに逃れたといいます。第一次トゥアレグ反乱のさいにリビアに逃れていた難民が帰還すると、1990年には第二次トゥアレグ抵抗運動が勃発します。
この抵抗運動は独立運動へと発展し、これに呼応するかのように、当時の軍事政権に対する反対デモが頻発していました。当時は、1968年11月より大統領を務めていたムーサ・トラオレの長期的な軍事政権でした。国民だけでなく軍内部からの不満も大きくなり、これに呼応して軍内部の勢力がクーデターを起こしトラオレ政権は終焉します。アフリカで長期政権を築く独裁者が多く、此に対する国民の不満がデモに発展するケースが多くなっています。
3度目の抵抗運動は2007年のことでした。このときは活動範囲がマリ共和国だけでなく、周辺のニジェールやチャドなどにも及んでいました。
そして2012年、マリ北部のアザワド地域にてトゥアレグ民族による独立運動が勃発しました。「マリ北部紛争」や「アザワド戦争」などと呼ばれる紛争です。4度目の抵抗運動です。
きっかけは2011年1月のリビアのカダフィ政権崩壊といわれています。政権崩壊によってリビア政府を支援したトゥアレグ民族の残党たちがリビアを出てマリへと入り、アザワド解放民族運動(MNLA)を結成します。リビアから大量の武器を持っての参加だったといいます。またMNLAはイスラーム過激派アンサル・ディーンと協力関係にありました。アンサル・ディーンはマリにイスラーム原理主義国家を建設する目的がありました。
MNLAはマリ北部を制圧後、2012年4月5日に独立を宣言します。しかし、アンサル・ディーンは同じイスラーム過激派である西アフリカ統一聖戦機構(MOJIWA)とアルカイダ機構(AQIM)の支援を受け、MNLAの乗っ取りに成功します。これに旧宗主国であるフランスが黙っておらず、マリ北部へと空爆を開始します。こうしてマリ北部紛争は泥沼化していき、依然として解決の糸口が見つからないままとなっています。
北部で勢力を張るMNLAやイスラーム過激派の存在、それを鎮圧するはずの政府軍内部の不満がくすぶった結果、2012年に引き続きクーデターが発生したと考えられます。そのためか、一部ではクーデターは「軍の給与」を巡る争いがきっかけで起こったものと報じられています。
こうした紛争が続いていることもあり、マリは金の埋蔵量が多い国ですがこれを基礎資源とした経済発展が進んでいません。綿花の生産・輸出も国際競争力を持てずにいます。こうした経済状況、北部での紛争など、多くの不満が大統領へとぶつけられた、それがクーデターとなって表面化したと考えられます。