中国野球はどこに行ったのか1:北京でみた「オリンピック・レガシー」
=五輪は果たしてレガシーを残すのか=
先月、ひさかたぶりに神宮球場の側を通った。目の前では新国立競技場の工事が行われていた。スタンドが出来上がりつつあるようで、その威容は遠目にも実感できた。その時頭に浮かんだのは、その直前に参加した講演会のことだった。「オリンピック・レガシー」についてのその講演では、過去の五輪の「失敗」が何例か語られていた。
その「失敗」とは五輪の大会そのものではなく、その後開催地に何を残すのかという観点からのものである。2000年代に入ってからで言うと、「聖地」アテネの「その後」の無残さはつとに知られている。国を挙げて建設された五輪施設は現在軒並み廃墟と化しているという。
この五輪には私も足を運んだ。2004年のアテネの町は、その9年前に訪ねた時とは全く別の町に生まれ変わっていた。むろん悠久の歴史を今に伝えるパルテノン神殿に代表される遺跡はそのままであったが、以前にはなかった地下鉄や大型の路面電車などの都市インフラが五輪に合わせて整備されていた。そして、初めて来た1995年当時のヘレニコ空港の敷地はオリンピックセンターに変わっていた。
「長嶋ジャパン(大会時は中畑清が長嶋茂雄に代わり指揮)」が金メダルを「至上命令」として戦った野球場はそこにあった。2面あった球場のうちメイン球場は外野席はないものの、2層式のスタンドをもった立派なもので、今後のこの国での野球発展に期待を持たせたが、せっかくの五輪もギリシャ系アメリカ人でしか代表チームを組めなかった状況を改善させることはできず、現在では、このスタジアムは古代遺跡のような無残な姿をさらしているという。
五輪というイベントじたいも、ギリシャという小国にとっては重荷にしかならなかったらしく、結局その後、この国は経済破綻に見舞われ、五輪開催にかかった莫大な費用を含めた巨額の負債を国民が今も背負わされている。
そして北京
新国立競技場を目にして1週間後、私は北京にいた。アテネの雪辱を果たすべく、1球団2人という枠を撤廃し必勝を期した「星野ジャパン」が戦った2面の野球場(さらに練習フィールドが1面)は、市内西部のウケソン地区にあった。2008年夏、人気のバスケットボール競技が行われた体育館と同じ敷地にあった球場周辺は常に人でごった返していた。
ギリシャ同様「野球不毛の地」であった中国だったが、出場枠が保証されたこの自国開催大会に備えるべく2002年に国内リーグを発足させ、それは台湾戦での国際試合初勝利として結実した。1万2000人収容のメイン球場では、五輪前にMLBのオープン戦が行われるなど、五輪をきっかけに野球熱が高まることも期待されたが、この大会を最後に野球競技が五輪から削除されたこともあり、ウケソンの野球場は大会後時を置かずして取り壊された。小規模な第2球場を国内リーグの北京タイガースの本拠とする話もちらほら聞かれたが、中国政府にそのつもりがなかったことは、アテネの反省を生かしたのだろう、2つの球場のスタンドがともに張りぼてのような簡素なつくりであったことが物語っていた。
北京五輪の2年後、私はこの地を訪ねた。球場は跡形もなくなっており、工事中なのか、敷地に入ることはできなかった。ただ、五輪時のモニュメントだけは残されており、ここが野球会場であったことを示していた。
そして今回、三度この地を訪ねた。商業施設が跡地に建てられたとは聞いていたが、そこにはもはや野球会場であったよすがはなにもなかった。ダルビッシュが投げ、新井貴弘がホームランを打ち、そしてG.G.佐藤が世紀の落球をしたフィールドはすっかり様変わりし、半地下式のショッピング・レストランモールに変わっていた。
敷地の余った部分にローラースケート練習施設が作られ、西端が、南北に延びる「奥林匹克(オリンピック)文化公園」と名付けられた緑地となっていたことが、わずかにここでスポーツの祭典が行われたことを示していた。そう、あの北京五輪はもうひと昔前の出来事なのである。今や「北京五輪」と言えば、2022年に開催予定の冬季五輪のことを指す。
緑地の端にある広場では、中国ではどこででも見られる朝の風景、太極拳に興じる老人たちの姿が見えた。中国始まって以来の立派な球場は、オリンピック・レガシーとなることなく地上から消え去ってしまった。しかし、アテネのことを思うと、そのことは現実には、より賢い選択だったのかもしれない。
野球にレガシーを残さなかった北京五輪
北京の後、野球は五輪から消えた。ロンドンもリオも、誰も知らない、団体競技のために他の競技との互換性のないスタジアムを建設しようと思わなかったのである。おそらく五輪競技としての野球は、今後もそういう流れになっていくのだろう。つまり、野球競技が集客レベルに達している国・地域での開催時にのみ採用ということだ。
来る東京五輪では、野球は警備上の懸念もあり東京ドームではなく横浜スタジアムをメイン会場とする。加えて「復興」の意を込めて福島あづま球場でも開催の予定だ。両球場はそれを受けて改装を行うという。とくに横浜スタジアムの改築は、スタンドを増築するなど、大規模なものになるらしい。
個人的には、横浜スタジアムがすでに築40年を迎えていることから、これを機会に全天候型の新球場を造ってもいいのではないかと思うが、これはこれでいいのかもしれない。
かつて、五輪や国体は、まだ貧しかった日本にインフラを整備するという効果をもたらした。五輪を機に造られた大型建造物はそのまま国民にとってのレガシーとなった。現在でもそのモデルは途上国で生きている。この冬訪ねたニカラグアでは、セントロアメリカ・ゲーム(中米各国が参加するスポーツの祭典)を期に新造された野球場、体育館などが、それまであった老朽化した施設に変わるものとして現地のスポーツ環境を大幅に改善していた。しかし、そのモデルを先進国に当てはめることはもはやできない。そのことは、国立競技場設計・建設を巡るゴタゴタや、五輪後の収支計画がいまだ明確でないことからもわかる。
話を北京に戻す。結局、五輪は野球に関して言えば、レガシーを何も残さなかった。せっかくの球場は一夜にして姿を消し、目標を失った国内リーグは、年々縮小の一途をたどり、2012年には中断してしまった。中国は今後も「野球不毛の地」のままなのだろうか。
それについては、稿を改めて考えてみたい。
(写真は全て筆者撮影)