【戦国こぼれ話】いまこそこんな政治家に現れてほしい! 政治力から見た最強大名5選
新政権が発足して約一ヵ月。首相が菅義偉さんから岸田文雄さんに交代した。岸田首相には優れた政治手腕を発揮していただき、国民生活を向上させてほしいものである。今回は、政治が良くなることを願い、政治力から見た最強大名を5人紹介したいと思う。
■今川義元(1519~60)
一般的に、今川義元は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に敗れた「ダメ武将」と評価されるが、決してそんなことはないだろう。駿河、遠江の本拠のほか、東三河に領土を拡大するなど、非常に有能な武将だった。
このほか義元は、鉱山の開発、伝馬・商工業の発展政策、検地を実施し、家臣団の統制(寄親・寄子制度など)でも力を発揮した。天文22年(1553)には、「仮名目録追加」を制定するなど、領国支配の安定化に普請した。
世間的には、文芸を好み、鉄漿(おはぐろ)をつけるなどしたので、公家化した軟弱な武将の武将と悪しざまに罵られることもあるが、その評価は改められるべきと考える。
■武田信玄(1521~73)
武田信玄は本拠の甲斐以外にも、わずか一代で信濃・駿河のほか、上野・飛騨・美濃・遠江・三河のそれぞれ一部を領有するなど、優れた軍事力を発揮した。あっという間に、広大な地域を支配した。
政策面では、伝馬制度を実施し、領国内の交通路を整備した。検地の実施や人返しにより農民支配を行い、甲府に職人や商人を集住させ、城下町の発展にも貢献した。戦いだけでなく、治世でも優れた能力を発揮したのだ。
天文16年(1547)には、「甲州法度之次第」を制定した。これにより領国内の秩序維持を法制化し、農民の年貢の未進や郷村逃亡などの禁止、家臣の臣従などを規定した。
■織田信長(1534~82)
織田信長は尾張の一大名にすぎなかったが、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで今川義元を破ると、以後は天下人の道を駆け上がった。しかし、あと一歩のところで、明智光秀に討たれたのである。
信長は上洛して京都を手中に入れると、以後は美濃や近江に拠点を置きつつ、従わない大名を討滅。手に入れた領国は、家臣に支配させた。これを繰り返し、版図を拡大した。人を使うのがうまかった。
政策面では指出検地を行い、ほかにも関所の撤廃、撰銭令、楽市・楽座などを実行した。それらのなかには、信長のオリジナルではない政策もあるが、いっそう進めることで領国支配を成しえたのである。
■豊臣秀吉(1537~98)
天正10年(1582)6月に織田信長が横死すると、豊臣秀吉がその後継者となって台頭した。秀吉は、長宗我部、島津、北条などの反抗する大名を屈服させ、わずか8年で国内を平定した。
秀吉は相手を恫喝したり、ときに優し言葉を掛けたりするなど、「人たらし」として知られている。秀吉に従えば手厚く処遇されたが、逆らえば徹底して攻撃された。秀吉は、「アメ」と「ムチ」を上手に使い分けたのだ。
秀吉の政策といえば、太閤検地、刀狩、海賊禁止令、惣無事など多岐にわたる。とりわけ戦国時代が兵農未分離という時代にあって、兵農分離の先駆けを実施した。しかし、晩年は恵まれず、幼い秀頼を残して無念のうちに病死した。
■徳川家康(1542~1616)
徳川家康は幼少時から人質生活を送るなど苦労し、織田信長、豊臣秀吉の配下に長らく甘んじた。秀吉死後の慶長5年(1600)、家康は関ヶ原合戦で勝利し、その15年後の大坂夏の陣で豊臣家を滅亡させた。
慶長8年(1603)、家康は征夷大将軍に就任して江戸幕府を開き、2年後に子の秀忠に職を譲ると、駿府で大御所政治を行った。さらに、朱印船貿易をはじめるなど、対外政策も積極的に推し進めた。
また、「武家諸法度」により大名統制を規定し、「禁中並公家諸法度」を制定して朝廷を規制するなどし、江戸幕府の基礎を固めたのである。家康は優れた現実主義者として、高く評価された。
■まとめ
今回は、特に優れた政策で知られた大名を取り上げてみた。とにかく政治家は大胆な行動力を持ち、しかもアイデアマンでなくてはならない。皆さんがお住まいの地域にも、きっと優れた大名がいたはず。