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槍の名手として名を馳せ、「鬼武蔵」と恐れられた森長可のあっけない最期

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
美濃金山城の桜。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、森長可を城田優さんが演じることになった。長可と言えば「鬼武蔵」として恐れられ、しかも槍の名手として知られていた。今回は、長可にまつわる逸話やあっけない最期を紹介することにしよう。

 長可が誕生したのは、永禄元年(1558)のことである。父の可成は美濃国金山城(岐阜県可児市)主で、もともとは土岐氏に仕えていたが、のちに織田信長の配下となった。可成は「攻めの三左」と称され、関兼定銘の十文字槍の使い手として知られていた。

 元亀元年(1572)、可成が近江で戦死したので、長可は森家の家督を継承した。長可の「長」の字は、信長から与えられたものである。その後、長可は信長の命に従って各地を転戦したが、若年ながらもほかの重臣に見劣りしなかったといわれている。

 大石神社(兵庫県赤穂市)には長可の鎧が伝わっているが、その大きさから長可が小柄だったことがわかる。しかし、その武勇は優れており、特に槍術をもって世に知られた。長可は「鬼武蔵」として恐れられ、非常に気性の激しい事でも有名だった。

 長可が用いた槍は、「人間無骨」という銘の十文字槍である。大身の槍で、二代目和泉守兼定(之定)の作である。「人間無骨」とは、「この槍の前では、人間の骨など無いも同然」といわれるほどの鋭い切れ味を意味すると伝わっている。

 長可は、初陣で27もの敵兵の首を取ったという。それは槍の腕前だけでなく、名馬のおかげでもあった。長可は、「百段」という甲斐黒の名馬で戦場を駆け回った。「百段」という名の由来は、金山城の階段100段を駆け上がるほどの健脚を意味した(諸説あり)。

 天正12年(1584)、羽柴秀吉は徳川家康と織田信雄の連合軍に戦いを挑んだ(小牧・長久手の戦い)。この戦いで、長可は岳父の池田恒興とともに秀吉方に与した。一連の戦いで、長可は井伊直政の軍勢と交戦に及んだのである。

 しかし、長可は水野勝成の軍勢に属した、鉄砲の足軽の杉山孫六により射殺された。武勇を誇る長可にしては、誠に呆気ない死だった。死後、戦死した場所と推定される地には、「武蔵塚」が建てられた。墓は、岐阜県可児市の可成寺にある。

 長可の死後、その遺言状が羽柴秀吉のもとに届けられた。遺言を一読した秀吉は、森家の家督を弟の仙千代(のちの忠政)が継承することを認め、遺領の金山にそのまま止め置いたのである。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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