松のすぐ近くに鉄道が!信玄公旗掛松事件
公害は高度経済成長時代に問題になっており、数々の訴訟が起きたことさえあります。
そんな公害訴訟ですが、戦前にも似たようなことはありました。
この記事では戦前にあった公害訴訟、信玄公旗掛松事件について紹介していきます。
松のすぐ近くを通る計画を立てた鉄道院
1917年1月、清水倫茂は信玄公旗掛松の保全を求め、国(鉄道院)を相手に甲府地方裁判所へ訴訟を起こしました。
この訴訟に至る背景には、清水が何度も鉄道院に松の保護対策を求めたものの、その要望が無視され、最終的に松が枯れてしまったという経緯がありました。
清水倫茂は山梨県北杜市の旧家に生まれ、地域社会で有力者として知られる人物でした。
1888年に家督を継ぎ、村会議員や助役、さらには甲村の村長を務めたほか、北巨摩郡の郡会議員にも当選するなど、地元の指導者的存在だったのです。
また、甲斐銀行の取締役頭取を務める資産家であり、この資産が彼に国を相手に訴訟を起こす財力を与えたといえます。
清水家が所有していた土地には、信玄公旗掛松が生育していました。
しかし、1896年、中央本線の敷設計画が進み、日野春駅が彼の所有地に隣接することが内定します。
1902年には正式に駅の設置が決定しました。
多くの住民はこの発展を喜びましたが、清水は停車場と線路が松のすぐそばに敷設されることを知り、驚きます。
松の根元からわずか1.8メートルの至近距離に鉄道が通る計画は、松の枯死を予感させるものでした。
上申書を提出した清水
20世紀初頭、日本では鉄道が文明開化の象徴とされ、多くの人々に歓迎されていましたが、一方で蒸気機関車の煤煙による環境への悪影響を懸念する声もありました。
清水倫茂もまた、信玄公旗掛松に与える影響を危惧し、1902年5月6日付で鉄道作業局八王子出張所長宛に上申書を提出します。
清水は、松の枝が線路に覆いかぶさる形になることや、工事が松の根を損傷する恐れがあることを指摘し、鉄道の敷設位置を変更するよう強く求めました。
しかし、鉄道事務掛長・北巨摩郡長の松下賢之進は、工事が松に影響を与えないよう最初から配慮して設計されているとして、清水の要求を却下します。
清水に対してではなく、甲村助役小尾濱吉宛にその旨が伝えられました。
これは、村長が清水自身であったため、直接的な返答を避けたものと考えられます。
この結果に納得できない清水は、再度上申書を提出します。
8月5日、そして9月5日にも同様の内容で、線路の変更を強く求めましたが、いずれも却下され、最終的に工事は当初の計画通りに進行します。
清水の訴えは無視され、信玄公旗掛松への影響を懸念する声は反映されないまま、工事が着手されることになったのです。
この上申書のやり取りは、清水の松への思いと、鉄道建設を進める国の強硬姿勢が象徴的に表れたエピソードとなっています。