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羽柴秀吉の怒涛の水攻めにより、ついに落城した竹ヶ鼻城

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
羽柴(豊臣)秀吉。(提供:イメージマート)

 今回の「どうする家康」では、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉が激しく戦っていたが、一方で和睦の話も持ち上がっていた。その前、秀吉は竹ヶ鼻城を水攻めにして落としていたので、その経緯などについて触れておこう。

 天正12年(1584)5月、秀吉は織田・徳川方に与した不破広綱が籠る竹ヶ鼻城を攻撃していた。5月29日、秀吉は伊勢の田丸直息に書状を送ると、竹ヶ鼻城攻防の戦局を伝えた(「田丸威氏所蔵文書」)。

 この書状によると、竹ヶ鼻城が水攻めに遭っていたことが判明する。秀吉は、備中高松城(岡山市北区)を水攻めにし、勝利を収めた実績があった。

 竹ヶ鼻城の東西には、長良川と木曽川という2つの大河が流れていた。その水を城の周囲に引き込み、水攻めにしたのである。水攻めを行ったうえで、秀吉は落城が近いと確信し、その後は伊勢に陣替えすると田丸氏に伝えた。自信満々だった。

 水攻めの様子は、小早川秀包の書状に書かれているので、次に記しておこう(「厳島神社文書」)。

 秀吉は竹ヶ鼻城の周囲3里(約12キロメートル)に堤を築き、さらに付城を14~15も築城した。そして、木曽川の水を流し込むと、わずか一両日で城の周囲は水浸しになった。

 その状況は、敵・味方の軍勢10数万が見ていた。秀吉がもっとも得意とする水攻めは、功を奏したのである。なお、書状には的場という城と書かれているが、前後の状況からして竹ヶ鼻城のことだろう。

 補足すると、秀吉の書状には、堤の高さは6間(約10.4m)もあったと書かれているが、短期間でそれほどの高さの堤が築けるのか疑問である(「諸将感状下知状并諸士状写」)。それはかなり大袈裟であって、実際はかなり低かったと考えられる。

 焦る信雄は味方の吉村氏吉に書状を送り、竹ヶ鼻城の水攻めの情報が虚説であること、また加勢を遣わすことができないと伝えた(「吉村文書」)。信雄は竹ヶ鼻城が水攻めで落城寸前だったが、否定することによって、吉村氏を安心させようとしたのである。

 しかし、竹ヶ鼻城が苦境に陥っていたのは事実である。6月3日、信雄は不破氏に書状を送り、水攻めに抗するのは困難だろうから、城を打ち捨てて長島城に来るよう伝えた(「不破文書」)。もはや、籠城の継続は困難になっていたようだ。

 6月7日、秀吉は前田利家に書状を送り、広綱の父・綱村と面会し、このまま広綱を水攻めで殺すのは不憫なので、命を助けることにしたと伝えた(「北国鎮定書札類」)。開城予定は、6月10日である。

 翌6月8日、秀吉は美濃国墨俣(岐阜県大垣市)まで戻り、茶人の山上宗二、津田宗及らと茶会を催す余裕を見せた(『天王寺屋会記』)。この時点で秀吉は、勝利を強く確信していたのである。

 こうして6月10日、竹ヶ鼻城は開城し、秀吉に引き渡された。竹ヶ鼻城の在番衆には、一柳直末と牧村政吉が命じられた。広綱は当初の予定どおり、信雄がいる長島城へ移ったのである。

 家康と信雄は幸先こそ良かったが、竹ヶ鼻城が落とされたことにより、頭を抱え込んだのである。しかし、その後になって事態は好転した。

主要参考文献

渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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