13歳のラグビー少年逝く
子どもは亡くなるとお星さまになるそうだ。2月28日、岩手県釜石市でのご葬儀・告別式に参列した帰り、冬の夜空を見上げ、れんせい君を探した。ラグビーボールの星を。
ラグビーが大好きだった佐藤蓮晟君が病気で天国に召された。まだ13歳だった。石応禅寺(せきおうぜんじ)での告別式には、たくさんのラグビー仲間も駆けつけた。かつてラグビー日本選手権7連覇の偉業を成した新日鉄(現・新日鉄住金)釜石時代の坂下功正さんほか、その流れを汲む釜石シーウェイブスOBの森闘志也さん、ラグビー日本代表の畠山健介さん(サントリー)…。
地元の甲子(かっし)中学の同級生たち、れんせい君が入っていた釜石シーウェイブスJrのチームメイトたち。ざっと3百人はいただろうか。かなしい冷気のなか、れんせい君との別れを惜しみ、故人を悼んだ。
れんせい君の父は新日鉄釜石でプレーしていた。涙声でこう、ごあいさつされた。会場からはすすり泣きの声が止まらなかった。
「ラグビーとともに歩んだ13年間でした。ラグビーと出会って、多くの方々にかわいがっていただき、れんせいは本当に楽しい日々だったと思います。2019年のラグビーワールドカップの観戦、そして自身でふたたびラグビーができることを夢見ていました」
れんせい君と初めて会ったのは、2年前の夏だった。小学6年生だった。人懐っこい笑顔が印象的で、不思議な懐の深さを感じさせる少年だった。
最初、彼から握手の右手を差し出してきた。大人びた対応がほほえましく、ラグビーを語る口ぶりにはパッション(情熱)があった。
「おれは、いろんな人とラグビーを楽しみたい」とれんせい君は言った。彼はラグビーの魅力、ラグビーの持つ価値を愛していた。リスペクト、団結、ディシプリン、インテグリティ…。
れんせい君はラグビーをとりまく環境を嘆き、「ワールドカップでもっと、ラグビーを盛り上げてほしい」とも言った。
「(新スタジアムは)どんな人でも楽しめるスタジアムであればいいなと思う。プレーする人にとっても、観戦する人にとっても、気持ちいい環境であってほしい。ラグビーだけじゃなく、サッカーなど、ほかのいろんなスポーツの人と一緒に何かをすれば、盛り上がるような気がします」
岩手県・釜石市は、2019年のラグビーワールドカップ日本大会の開催地のひとつである。れんせい君は小学校1年のとき、ラグビーをはじめた。地元の釜石シーウェイブスJrでがんばり、チームの中心選手として活躍した。ラグビーを通して、友だちをいっぱいつくった。
2011年東日本大震災では友だちも犠牲になっただろう。でも、やさしく、たくましく育っていった。2012年、14年と、台湾の子どもたちとのラグビー交流にも参加した。「台わん遠せい」と題する当時の感想文にはこう、書かれている。
<台わんのラグビーチームの子どもたちと友だちをつくりました>
でも突然、れんせい君は病魔に襲われた。そういえば、初めて会った2年前の夏、れんせい君は左足にギブスを付けていた。
悩んだ末、2015年11月、左足を切断した。昨年2月、車いす姿のれんせい君と会ったときは、元気そうに見えたがのだが。
1年ほどの盛岡での入院治療を受け、昨年5月に退院した。甲子中学に入学し、友だちに誘われて野球部にはいった。一生懸命、練習を手伝い、スコアブックもつけた。彼の生来の献身性もまた、ラグビーの価値のひとつである。
父・大輔さんは「最後のラグビー観戦」と覚悟し、ことし1月7日、東京・味の素スタジアムでのトップリーグ、サントリー×東芝戦にれんせい君を連れて行った。入院中にサイン入りジャージィをもらっていたサントリーの畠山さんとも会った。
2月24日朝、れんせい君は安らかな寝顔のような表情で旅立った。発病から約2年、ご両親の心中は察して余りある。
釜石シーウェイブスJrの友だちが弔辞を読んだ。「れんちゃんは、ラグビーをおおくの人に広げるような不思議な力を持っていたと思います」と漏らした。涙で言葉が途切れた。
「れんちゃんが、一番楽しみにしていた釜石で行われるラグビーワールドカップを天国から見守ってください。れんちゃんの思いを背負って、将来、ラグビーに携わっていきたいと思います。ほんとうにありがとう。そして、さようなら」
ありがとう、れんせい君。天国では、故・平尾誠二さんやたくさんのラグビー仲間と思い切り走り回ってください。ありがとう。ありがとう。ありがとう。