【戦国こぼれ話】甲斐武田氏は他国に侵攻して人々を拉致して奴隷とし、無慈悲にも高額で買い戻させていた
先日、コンゴで中国人が襲撃され、拉致された事件が起こった。戦国時代、甲斐の戦国大名武田氏は、たびたび他国に攻め込み、人を略奪した。その事例を取り上げておこう。
■『妙法寺記』という史料
甲斐国の戦国大名である武田氏は、たびたび戦場で人の略奪を行ったことで知られている。
その事実を記録しているのが『妙法寺記』(『勝山記』とも)という史料である。
『妙法寺記』は、甲斐国の法華宗僧侶によって書き継がれた年録で、甲斐国の武田氏や小山田氏の動向をはじめ、当時の生活や世相が記録されている。
当該期の社会を知るうえで、『妙法寺記』は非常に貴重な史料である。
そして、同書には、数多くの人の略奪の記録が残されているのは、先述のとおりだ。以下、確認しておこう。
■武田軍、人を略奪する
天文5年(1536)、武田氏の軍勢が相模国青根郷(相模原区緑区)に攻め込み、「足弱」を100人ばかり略奪したという。
相模国は北条氏の領国だったので、武田氏はそこから「足弱」を連れ去ったということだ。
ところで、史料中の「足弱」には、どのような意味があるのだろうか。
「足弱」には「足軽」の意もあるが、一般的には「足が弱い人」「歩行能力が弱い人」という意味がある。
その意が転じて、女性、老人、子供を指すようになったのだ。
武田軍は青根郷での戦闘のどさくさに紛れ、「足弱」を連れ去って戦利品とし、国へ戻ったのである。
■武田軍が攻め込んだ理由
この前年の7月から8月にかけて、当時の武田氏の当主だった信虎は、甲斐・駿河の国境付近の万沢口(山梨県南部町)において、今川氏輝、北条氏綱の連合軍と戦い、最終的に敗北を喫した(万沢口合戦)。
武田氏は今川・北条の両者に対して、戦いで負けたという禍根を持っていたので、再度、駿河国に攻め込んだのだろう。それだけでなく、人々を連れ去ったのである。
なお、連れ去った人々を奴隷として使役するならば、老人は役に立たないので除外され、女性と子供が略奪の対象になったのかもしれない。実は、以後も武田氏による人の略奪は行われた。
天文15年(1546)8月、甲斐国内では深刻な飢饉が発生し、餓死する者が続出した。
そうした状況下、武田氏の軍勢は出陣先(場所は不明)で男女を生け捕りにして、ことごとく甲斐国へと連れ去ったという。
飢饉という異常事態に際し、人を連れ去ることで、農作業を行う労働力を確保しようとしたのだろう。
というのも、人々が餓死して亡くなる一方で、農民は耕作地を放棄して、他領に逃亡した可能性もある。
■買い戻された奴隷
しかし、武田氏による人の略奪は、決して労働力の確保だけではなかったようだ。
生け捕られた人々は、親類が応じることがあれば2貫、3貫、5貫、10貫文で買い戻されていったことを確認できる。
一貫を現在の貨幣価値に換算すると、約10万円になるので、連れ去られた人々は約20万円から100万円で買い戻されたのだ。
金額の差は、性別や年齢によって異なっていたのではないだろうか。
参考までにいえば、中世における人身売買の相場は約2貫(約20万円)と指摘されている。
武田氏の買戻しの相場は、平均以上の金額ということになる。
■まとめ
戦争に乗じて他国の人々を連れ去ったのは、武田氏の命令というよりも、各将兵の判断だった可能性が高い。
これを「乱取り」という。「乱取り」は、出陣した将兵の賞与のようなものだった。
将兵は連れ去った人々を奴隷としてこき使うか、あるいは売り渡すなどして利益を得ていた。戦国の世は無慈悲かつ残酷だったのだ。
■主要参考文献
渡邊大門『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』(星海社新書、2021年11月)