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おちこぼれないと見えない「人生の意味」~無気力な子どもと「Do」~

ひとみしょう哲学者・作家・心理コーチ

「こうすれば、ああなる」と信じ努力するも、「そうならなかった」。その原因がわからない時、あるいは原因はわかるもののそれに納得できない時、私たちは「おちこぼれた」と感じます。

例えば、1日12時間勉強し、東大模試でA判定を何回もとったにもかかわらず東大に落ちた。自分より出来の悪いヤツは合格した。本人は自分が落ちた理由がわからない。理不尽だと思う。その理不尽だと思うことそれ自体が、おちこぼれ。ここではおちこぼれをそのように定義して話を進めます。

おちこぼれが必死になってやること

いったん人生の「本流」から外れてしまえば、多くの人は自分を変えようとするようです。

例えば、「就活」など、私に言わせるなら運でしかありませんが、就活に失敗したことによって「おちこぼれた」と感じた人は、自分を変えようとするようです。例えば、自己啓発やそれに類するビジネス書を読みます。

しかし「自分」が変わることはまずありません。生きざまが不器用な人は、じつは幼稚園の頃から、中学も高校も大学もずっと不器用だったので、今さら器用な生きざまには変わりません。要領よく生き、金儲けの「本流」に違和感なく溶け込んでいるヤツを、遠くから眺めるしかない。

認知行動療法を使っても変わりません。

認知行動療法というのは、ある刺激が来た時の自分の反応をポジティブなものに「矯正」する心理学の試みですが、そんなもの焼け石に水。つまり表層的には変化できても、その人の根本は変わらない。なぜなら、意識的に矯正しても矯正できなかったなんらかが、あなたの生きざまを不器用にしているからです。

したがって、おちこぼれた当人は、理不尽さを前に「なぜ」を問い続けるしかない。「あんなに頑張って勉強したのに、私はなぜ東大に落ちたのだろう」「同級生より成績がいい私が就活に失敗し、チャラチャラ遊んでいた同級生がなぜ三●商事に入れたのだろう」「なぜ、なぜ、なぜ……」。

おちこぼれて初めてわかった人生の意味

「なぜ」を問い続けるなかで、私たちは2つのことを理解するようになります。

人生の意味のなさと、意味のある「感じ」の2つです。

どう転んでも人生とは、親がやることをやった結果、つまりあなたの意思とはまったく無関係に、始めさせ「られ」たものです。あなたが意図して始めたものではなく、始めさせられたもの。それが人生です。そんなものに意味はない。

しかし、他方で、私たちは「では、死のう」と思って前向きに死ねない生き物です。ということは、誰かによって生かされている生き物だと言える。ということは、そこには意味というものがあるのではないか? このような仮説が生まれます。

意味のなさを感じること。意味があるかもしれないと思ってそれを果てしなく問い続けること。この2つの思考の往復運動に「意味」なるものがあるように、私は思います。

無気力な子をどうすべきか?

したがって、人生に意味はないと思って無気力に生きることも必要だし、なんらかの有用性にコミットして生きることも必要。

しかし、どちらか片方ではダメで、その両方の世界を行ったり来たりする往復運動が必要。その運動の中からあなたに固有の人生の意味が聞こえてくるでしょう。

運動というのは動きですから、何かをやって動かないと、私の言っていることが理解できないと思います。言語の特性上、動きは記述不可能だからです。

最後に。子どもが無気力で困ると嘆いている親御さんへ。

お子さんは人生の無意味さ、すなわち人生の真実の一端をイヤというほど知っています。しかし、人生の持つもう1面が見えていません。それは運動によってしか見えないので、なにかをするように促し続けてあげてください。

哲学者・作家・心理コーチ

8歳から「なんか寂しいとは何か」について考えはじめる。独学で哲学することに限界を感じ、42歳で大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なんか寂しいとは何か」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』(ともに玄文社)、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道先生主宰の「哲学塾カント」に入塾。キルケゴールなどの哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミーと人見読解塾を主宰している。

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