医学部生の風俗嬢はなぜ裸のアルバイトを選んだのか?「親の言いなりになる『いい子』の心の奥のほう」
親の言いなりになる「いい子」の心の奥については、加藤諦三先生はじめ、さまざまな方が論じておられます。
今回は、科学の心理学が採らない視点から、医学部生の風俗嬢はなぜ裸のアルバイトを選んだのか? すなわち、親の言いなりになる「いい子」の心の奥について一緒に見ていきたいと思います。
性的に奔放だからだろうか?
親に「あなたは医学部に行って医者になりなさい」と言われ続けた女性がいます。
彼女はおとなしい性格で、親に言われるままに勉強し、2浪のすえ医学部に合格します。 3回留年して28歳で医学部を中退します。
「親の期待に応えなくては」という焦りと、「やりたくない勉強を我慢しつつやるのはもう無理だ」という絶望にさいなまれる――そんな日々を中学生から、30歳近くまで生きてきたとのことです。
そんな彼女は大学時代、親に内緒で、風俗店でアルバイトをしていました。
さて、こういったケースについて、例えば「親の言いなりになる子はなんらか寂しさを抱えているから性行為に走るのだ」と説明する人がいます。
あるいは、「もともと性に奔放な性格なのだ」という遺伝的要素をもとに説明する人もいます。幼少期におけるなんらかの性的な体験がトラウマになっていると主張する人もいます。
「親を嬉しがらせ、親に認めてもらうことで、自分の承認欲求を満たそうとする。それが心理的成長を遂げていない人の特徴だ」などと、厳しい指摘をする識者もいます。
生きている心地ってなんだろう?
「性行為をしている最中のみ生きている心地がする」という彼女の言葉を、私は今でも覚えています。なぜならそれは、分析的に自分のことを語る彼女の話の中で、少々「浮いた言葉」に感じられたからであり、そこになんらか「医学部生の風俗嬢」の心の奥を紐解くヒントがあるように感じられたからです。
生きている心地というのは、「今ここに確かに生きている感覚」と言い換えることができるでしょう。つまり、なんらか過去にとらわれていない感覚。
親が「医者になれ。勉強しろ」と言ったのは過去です。いえ、まさに今、彼女の目の前で親が「医者になれ。勉強しろ」と言うかもしれない。しかしそれは、言ったそばから過去になります。言葉とは常に過去だからです。
他方、今という時は常に「まっさらな今」として瞬時に立ち現れ、同時に過ぎ去る時です。
その「点」のような「今」を、彼女は性行為の最中にのみ、生きることができる。それ以外の時は「過去に」親に言われた「医者になれ。勉強しろ」という言葉に、つまり過去に、がんじがらめにされている。
とは言うものの、私たちは普通、その意味での今(まっさらな点のような今)を生きることはできません。なんから過去からの「文脈」の中で生きるしかない。社会的に生きるというのはそういうことでしかないからです。
つまり神様に反抗した
過去に生きるというのは「言葉の世界に生きる」と言い換えることができます。「医者になれ。勉強しろ」「私は親の期待に応えるべきだ」「留年したことで親を悲しませた私は出来の悪いダメな人間だ」。すべて過去です。それらの言葉に心をおかされつつ暮らすのも、過去に生きていると言えます。
他方、「今」という動的な時は非言語的です。肉感的ななんらかの感じ。人肌のぬくもりを確かに交換しあっている感じ。すべてのことが消え去ったかのような恍惚感……そのような「感じ」とは「今まさに感じている」と現在進行形でしか言い表すことのできない(しかも言ったそばから過去になる)「動き」です。
ゆえに今とは「動き」です。常に動いている以上、「今」も「感じ」も記述不可能だし思考不可能なものです。だから私たちは常に、過去を基準に今を生きるしかない。過去にほどよく掴まって生きるしかない。
医学部生の風俗嬢は、肉感的に何かを感じる「感じ=動き」を追い求めてリスクを承知で風俗バイトを選んだ。そうするしかない何かを抱えていた。無理を承知で言葉の世界を越えようとした。
つまり神様に反抗した。なぜなら言葉に依拠しないと生きていけないように人間を創ったのは科学ではないからです。
私は彼女の生きざまをかっこいいと思います。