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心理学が語らない親子関係の限界「戦争体験を語らない高齢者たち」

ひとみしょうおちこぼれの哲学者・心理コーチ・作家

先日、私のX(ツイッター)のタイムラインに戦争体験に関するポストがふらっと流れてきたので、それについてなんの気なしに以下のコメント(リプ)をしました。

「戦争体験者の特徴はそれを語らないことだと私は思います。したがってこのような話は大変貴重で、ここに記す意味があるものと思います(※)」

このリプは、インプレッション(表示回数)が24.7万、「いいね」が811件、リポストが44件、ブックマークが9件ありました(2024年6月26日 8:10現在)。自慢しているのではありません。ものすごく意外でした。上記の数字が「共感」指数であるなら、多くの人が私の意見に共感してくださっているからです。

さて、今回はその奇貨のような(?)共感を追い風に、戦争体験を語らない高齢者はなぜ語らないのかについて一緒に考えつつ、私たちの「限界」についてお話してみたいと思います。

目を背ける女子大学生

中世のヨーロッパの戦争を題材にしている映画があります。人の腕や頭が吹っ飛んだり、巨大な丸太に押しつぶされて圧死したりするシーンが出てきます。中世の戦争は第一次世界大戦以降のそれとは違い、かなり「不器用」なものでした。

私は大学の授業でそういった映画を10本以上見ましたが(1回の授業で1本の映画を見る)、エグいシーンが出てくるたびに私の前に座っている女学生たちがあからさまに目を背けていたのを、映画の内容以上に今でも覚えています。

戦争体験者も同じではないでしょうか。見たくないものは見たくない。思い出したくないものは思い出したくない。これは私たちの心がなぜか有している特徴と言えるのではないかと思います。

べつに見ても死にはしません。なので、本能が何なのかよく知りませんが、「生を司る本能が見たくないと言っている」という言い方は不適切であるように思います。それを見たことによって命を奪われる現実的可能性はまったくのゼロだからです(実際に、映画を見た後、みんなで楽しくランチを食べた)。

しかし、心はなぜか「これ以上エグいものを受容したくない」と言ってシャッターを下ろす。

それはなぜでしょうか。

風俗店に行かない男性

科学の心理学の用語に「PTSD(心的外傷後ストレス障害)」というものがあります。「トラウマ体験」がなぜかよみがえってきて日常生活に支障をきたす症状とされています。

カウンセリングをしていると、多くの人がPTSDやトラウマを盲目的に信じているように私には感じられます。しかし、衝撃的な出来事が「トラウマ」になる人がいる一方で、それを受容する人もいます。それはなぜでしょうか? ここでの問題はそれです。

つまり、エグいものを「ここまでは受容できて、ここから先は受容できない」とする「基準線」はどこにあるのでしょうか。この問いは哲学の問いなので、考えるしかありません。心理学は受容できないと判断した人を相手に治療するだけです。

身近な例で考えてみましょう。

たとえば、「不倫は悪だ」と声高に叫ぶ人は、不倫を「エグいもの=悪」と考えているように思います。だからそれを受容しない。あるいはできない。

あるいは、男同士で酒を飲んだとき「2軒目は風俗店に行こう。金はオレが出すから」と言われても帰る人がいます。風俗店で命を奪われるわけではないにもかかわらずです。そういう人は風俗店に行くという行為をなんらかエグいもの、すなわち悪と考えているように思います。

あるいは性欲について。学校における「性」教育は進んでいると聞きますが、「性欲」という言葉を口にするだけで攻撃してくる人がいます。本当は性欲とは何かを精緻に吟味検討することそれ自体が「教育」であるにもかかわらず。少なくとも「あなたの体内に現に存在してる(た)もの」を隠すことを教育とは呼ばないでしょう。

戦争体験を語らないのも、不倫は悪だとして受容しないのも、風俗に関して口と心を閉ざすのも、性欲を忌み嫌うのも、すべて根っこは同じだと私は思います。つまり私たちは、「自分にとっての悪」が閾値を超えたら心のシャッターを下ろす。そういった性向を持っているように思います。

ここには2つの問いがあります。1つは悪とは何か? 今ひとつは、閾値は誰がどのように決定しているのか? です。

その2つを精緻に論じたらおそらく2万字はゆうに超えると思うので、以下には簡単に述べます。

私たちの限界

ところで、倫理とは「なぜかは分からないけれど、気づけば、あることを『基準』として信じている、その心の作用」のことです。そこに理路と呼べるものはありません。見たくないものは見たくない。思い出したくないものは思い出したくない。だってそれは私にとってエグいものだから。私にとって悪だから。だって悪は悪だから。以上、終わり。そこに理路と呼べるほどのものがないのは明らかでしょう。

他方で私たちは、なんらか正しそうな情報を仕入れ、それが提唱するようにふるまおうとします。例えば「子育てはこうあるべし」と精神科医が書いた記事をクリックし、読み、そのようにしようとします。

それほどの「努力」をしたところで、しかし、実際には、見たくない、聞きたくない、思い出したくないという気持ちが、私たちが気づかないうちに、私たちのふるまいを規定しています。とすれば、私たち人間は、そう高級な「理性的」存在ではないと言えるでしょう。

このへんのことが私たちの心の限界であり、同時に社会の限界でもあるように思います。無論、それが子育てや恋愛、親子関係、引いては人生の限界でもあると思います。

しかし、なぜ「私は」それを見たくないと思うのか、聞きたくないと思うのか、思い出したくないと思うのか? そういった問いを問うことが本当は必要ではないでしょうか。

しかし、その主張も「いや、それ、聞きたくないから」という意見にかき消されるはずです。聞きたくないものを聞かなかった結果、さらに悪い結果を招くと知っていても私たちは、なぜか常に「聞きたくない」という気持ちを優先させているようなのです。

それがいいとか悪いとかという話ではありません。私が大切な人を亡くしたこと。私が全財産を奪われたこと。私が青春時代を奪われたこと。私が赤貧に耐えたこと。私の哀しみ。私の憎しみ。私の怒り。私の屈辱。私の諦観。そういったものを社会的な善より優先させるのが、どうやら人間らしいのです。

※参考:冒頭にご紹介した私のリプライはこちら

おちこぼれの哲学者・心理コーチ・作家

8歳から「なぜ努力が報われないのか」を考えはじめる。高3で不登校に。大学受験の失敗を機に家出。転職10回。文学賞26回連続落選。42歳、大学の哲学科に入学。キルケゴール哲学に出合い「なぜ努力が報われないのか」という問いの答えを発見する。その結果、在学中に哲学エッセイ『自分を愛する方法』『希望を生みだす方法』、小説『鈴虫』が出版された。46歳、特待生&首席で卒業。卒業後、中島義道主宰「哲学塾カント」に入塾。キルケゴール哲学を中島義道先生に、ジャック・ラカンとメルロー=ポンティの思想を福田肇先生に教わる(現在も教わっている)。いくつかの学会に所属。人見アカデミー主宰。

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