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東南海地震、三河地震、空襲、そして敗戦、さらに台風、地震、噴火。震災後の大混乱。

福和伸夫名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長
(提供:MeijiShowa.com/アフロ)

東南海地震の報道

 一回前の南海トラフ地震・東南海地震は、1944年12月7日午後1時36分に発生しました。死者・行方不明者は1223人と言われています。太平洋戦争開戦から 3 年の式典を翌日に控えた日で、戦時下だったため地震状況ははっきりせず、国民にも知らされませんでした。地震翌日の中部日本新聞の朝刊は、軍服姿の昭和天皇の写真が 1 面トップにあり、 3 面の片隅に「天災に怯まず復旧 震源地点は遠州灘」という見出しで小さな記事が報じられただけで、それ以降は全く報じられていません。

 ラジオ放送は、1925年に始まっていましたが、震災に関する報道があったとは聞きません。徹底的な情報統制で、国民には、地震の規模や震源、震度、被害量など、なんの情報も示されませんでした。被害状況の写真を撮ることも許されませんでしたから、被害写真も僅かしかありません。1か月後に発生した三河地震についても翌日の中部日本新聞の一面はルソンの戦況が記されているだけでした。

 一方、欧米紙では日本で起きた地震は大きなニュースになりました。ニューヨーク・タイムズは 1 面に「JAPANESE CENTERS DAMAGED BY QUAKE」の見出しを掲げ、「1923年の大地震(関東大震災)よりも大きい」とか「日本列島では激しい揺れと津波が起きたはず」などと報じました。世界各地の地震計に基づいたデータが分析され、連合国には巨大地震の発生を隠すことができなかったようです。連合国の勝利間違いなしとの報道もされました。国内の状況とは対比的です。

地震直後に名古屋の軍事拠点を狙った空襲

 東南海地震の翌週12月13日に、三菱重工業名古屋発動機製作所大幸工場が大規模な空襲を受けました。この工場は日本の航空機エンジンの4割を生産する最重要拠点で、330人の死者がでました。この場所には現在、ナゴヤドームや名古屋大学医学部などが立地しています。これが名古屋を襲った初めての本格的な空襲でした。この日には、東洋一の動物園と言われていた東山動物園の猛獣が殺処分になりました。ただし、象は生き延び、戦後、全国から象さん列車に乗った子供たちが東山公園に訪れました。ちなみに東京の最初の空襲は前月の11月24日でした。

 名古屋は我が国随一の軍需都市だったため、軍需施設への空襲は、12月18日に三菱重工名古屋航空機製作所大江工場、12月22日と翌年2月15日の名古屋発動機製作所と空襲が続きます。私が卒業した小学校は工場から比較的近くにあり、名古屋で最も古い鉄筋コンクリート校舎が使われていましたが、当時の銃弾の後が多数残されていました。

誘発地震・三河地震の発生

 東南海地震の37日後の1月13日、三河地震が発生しました。未明の3時38分過ぎに、深溝断層や横須賀断層で発生したマグニチュード6.8の地震で、東南海地震の誘発地震だと考えられます。愛知県三河地方南部の旧幡豆郡、碧海郡、額田郡、宝飯郡などで甚大な被害となりました。現在の西尾市・安城市・碧南市・幸田町・蒲郡市に当たります。死者は2,306名と東南海地震の倍にもなりました。

 地震発生時間が未明だったこと、東南海地震で損壊した建物が補修前に強烈な揺れが作用したことなどが原因したようです。また、集団疎開していた国民学校の学童50人以上が、疎開先の寺院の倒壊によって犠牲になりました。東南海地震で、学徒動員されていた中学生や女学生たちが名古屋や半田の軍需工場の倒壊で犠牲になったことを合わせ、戦時下故の痛ましいできごとです。

大都市を襲った度重なる空襲から敗戦へ

 米軍の空襲は激烈を極め、市民を巻き込んだ中心市街地への空襲が始まりました。3月10日には、東京大空襲によって約10万人という1923年関東地震を上回る犠牲者を出し、再び首都は焼け野原になりました。名古屋も、東京大空襲の翌々日の3月12日には名古屋駅が炎上した名古屋大空襲、その後3月24日、5月14日、6月9日、6月21日と大規模空襲がありました。5月の空襲では、国宝・名古屋城天守閣や本丸御殿が焼失します。名古屋市は、全体で、63回の空襲を受け、被害は死者7,858名、負傷者10,378名、被災家屋135,416戸に及んだと言われます。

 東南海地震の被災地だった四日市は6月18日に、豊川市は8月に豊川海軍工廠への大規模空襲がありました。このように、東南海地震・三河地震に見舞われた被災地は、震災復興も儘ならない中、戦災の渦中へと巻き込まれていきました。

 3月26日に始まった沖縄戦も6月23日に終結し、日米両軍合わせて20万人もの犠牲者を出しました。その後、全国各地が激しい空襲を受けます。その間、4月30日にはドイツのヒトラーが自殺、5月7日にドイツが降伏文書に調印します。そして、8月6日に広島市に、8月9日に長崎市に原子爆弾が投下され、8月15日正午に昭和天皇による終戦詔書がラジオ放送され、敗戦を迎えました。

1946年に台風と南海地震が追い打ち、そして、噴火、台風、地震

 

 翌1946年には、9月17日に三大台風の一つ・枕崎台風が襲来し、死者2,473人、行方不明者1,283人の犠牲者を出しました。特に、原爆被災地・広島で大きな被害を出しました。

 11月3日には、日本国憲法が公布され、新しい時代への準備も進みはじめましたが、12月21日には、昭和南海地震が発生し、死者1443名の死者を出しました。東南海地震とペアの南海トラフ地震です。戦後の混乱期だったこともあり、被害実態は十分に分かっていません。

 1947年8月には浅間山の大爆発が、さらに、9月にカスリーン台風の来襲があり、利根川が決壊して首都圏が広域に浸水し、1000人を超す犠牲者を出しました。そして、1948年6月28日に福井平野を福井地震が襲い、3000人を超える死者を出しました。

 まさに泣きっ面に蜂という状況でした。

震災と戦災の復興

 焼け野原と化した名古屋市は、精力的な都市再建が図られました。とくに、道路整備に力が注がれ、名古屋市中心部にあった18万9千基の墓や寺社を郊外に移し、焼け止まりのため日本の100m道路(久屋大通・若宮大通)を作りました。久屋大通の南に続く新堀川と合わせて、十字型の延焼防止帯になります。100m道路を中心に、縦横に広幅員の道路が整備され、その後のモータリゼーションを見据えた都市計画の優等生になりました。戦災、震災、洪水に見舞われた福井市も見事に復興し、不死鳥の町と言われています。

 震災や戦災は都市再生の大きな機会でもあります。我が国の多くの都市は、震災と戦災の後、見事な都市復興で、「仙台防災枠組」が位置づけた「より良い復興(ビルド・バック・ベター)」成し遂げたと言えます。

名古屋大学名誉教授、あいち・なごや強靭化共創センター長

建築耐震工学や地震工学を専門にし、防災・減災の実践にも携わる。民間建設会社で勤務した後、名古屋大学に異動し、工学部、先端技術共同研究センター、大学院環境学研究科、減災連携研究センターで教鞭をとり、2022年3月に定年退職。行政の防災・減災活動に協力しつつ、防災教材の開発や出前講座を行い、災害被害軽減のための国民運動作りに勤しむ。減災を通して克災し地域ルネッサンスにつなげたいとの思いで、減災のためのシンクタンク・減災連携研究センターを設立し、アゴラ・減災館を建設した。著書に、「次の震災について本当のことを話してみよう。」(時事通信社)、「必ずくる震災で日本を終わらせないために。」(時事通信社)。

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