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『鎌倉殿の13人』で三谷幸喜が描こうとしている「恐ろしいこと」

堀井憲一郎コラムニスト
(写真:Motoo Naka/アフロ)

自分で殺させた弟の首に語りかける頼朝

大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の20話では源頼朝(大泉洋)は義経(菅田将暉)を攻め立て、殺して、その首を鎌倉まで運ばせた。

首の入れられた首桶に、兄として語りかけているシーンが印象的である。

自分の命令で殺した弟ではあるが、そこには兄弟の情があった。

戦の前に約束したとおり、一ノ谷を、屋島を、壇ノ浦の様子を聞かせてくれ、と首に語りかけるのである。

感動的であり、また、ひたすら不気味でもあった。

あれは『鎌倉殿の13人』の恐ろしさをもっとも象徴するシーンだったのではないだろうか。

登場人物の二面性を描く『鎌倉殿の13人』

こういう頼朝の姿をドラマで見かけるのは珍しい。

義経側の物語であれば、頼朝はこんな情に厚い人には描かれないし、頼朝側のドラマでは(数が少ないが)、義経は政治的敗者でしかなく、行政者の当然の処断として描かれるのが通常である。

三谷幸喜脚本の『鎌倉殿の13人』はそうではない。

主要人物を、わかりやすい一面性で捉えていない。

義経はふだんはクレージーな人物ながら、じつは冷静沈着に行動できる男として描かれていた。

頼朝もまた非情な政治家でありながら、感情に揺れ動くさまを繰り返し見せる。

このドラマの特徴は、登場人物の「分裂気味とまで言える二面性」を描くところにある。

軽めのテイストながら、人の恐ろしい部分に踏み込んでいく作品でもある。

「朝廷を裁いた男」を描くドラマ

それは主人公の北条義時(小栗旬)の生涯が二面性に満ちているからだろう。

もとは時の政権とほぼ関係を持たない一地方豪族の子息にすぎない。

それが、のちに「朝廷」と戦って勝ち、天皇家の権力者たちを処断する絶大なる権力者となっていく。

義経や頼朝を主人公にした大河ドラマの場合、見せどころは平家殲滅と、鎌倉政権の樹立になるだろう。

ただ北条義時を主人公にした『鎌倉殿の13人』はそこがメインにならない。

クライマックスは承久の変である。

承久三年、後鳥羽上皇を中心とした京都政権の軍を破った鎌倉政権の中心にいたのが北条義時である。

彼は、史上初めて天皇家の人たちを「敗軍の指揮者」として処断していく。

鎌倉政権からすれば朝廷の反乱であるが、京都朝廷からすれば、鎌倉の政権こそが私政権であり(そもそも中心の義時が天皇家の血筋のものではない)、その存在は許されず、ただ征伐しようとしたにすぎない。

でも逆にやられてしまった、という事件である。

『鎌倉殿の13人』は「朝廷を裁いた男」北条義時を描く物語である。

源頼朝を上回る北条義時という存在

だから北条義時をわかりやすい男に描くことはできない。

そんなたやすい人物ではない。

正義の心だけで「日本の国そのものでもあった朝廷」を武力制圧できるものではない。

芯にもっている心は友愛かもしれないけれど、表面上に見えてくるのは、冷徹な政治家の姿である。

北条義時は、源頼朝をも上回る非情な政治家であった。

二面性の男の物語でもある。

権力者には二面性がないといけない

もちろん最初から彼を二面性の男(表の顔と裏の顔の違う男)に描くと、ドラマとして共感を得にくくなる。

最初のころは純な男である。

それが頼朝のそばに仕え、権力とはどういうものかを実感しつづけることにより、裏の顔が形成されている。そのように描かれる。

権力の中心にいる者は、二面性がないとやっていられない。

表と裏、正と邪、清と濁、善と悪、是と非。

広く統治する者には、そのどちらも併せ持つことが求められる。

『鎌倉殿の13人』は真面目な男が、巨大な政治家になっていくさまを描いたドラマでもある。

「人の業」を見つめざるをえなくなる。

八重姫が義時の妻となる「トンデモ展開」

だから、義時の最初の妻を「八重姫」(新垣結衣)としたような、いわば「トンデモ展開」なども、その「二面性テーマ」を表す一環なのだろう。

もともと頼朝の現地妻として少しだけ歴史に登場する八重姫は、伊東祐親の娘とされている。

彼女の存在は、伝承でしかない。

源頼朝「英雄伝説」を彩る悲劇の姫として、伝えられているだけである。

八重姫にもあらわれる「二面性」

「地元の豪族の娘と、流離してきた貴種が結ばれるが、悲劇に終わる」。

これは世界中にある「悲劇の恋話」の類型のひとつに過ぎない。

八重姫じたいが、そういう「悲劇の女性」物語として消費するために、わざわざ作られた虚像(すくなくとも話を盛られた存在)である可能性が高い。

それが新垣結衣が演じる八重姫である。

ただこの『鎌倉殿の13人』では、悲劇の姫だけでは終わらせなかった。

その後、義時の妻となりのちの名執権である泰時を生んだ女性という別の顔を付け足した。

ほぼフィクションである。

泰時の母は不明、というのが歴史上の定説だからだ。

八重姫にも「二面性」がもたらされた。

悲恋の女性でありながら、鎌倉政権の中枢をつないだ女性ともなった。

それでいて、21話での、川での出来事。

再び悲劇へと放り込んだその展開にはただ唸ることしかできない。

八重姫が子供を渡したあとの、川の中での吐息が忘れられない。

二面性を持たない武士は粛清されていく

『鎌倉殿の13人』では、すべての人物の二面性が描かれているわけではない。

腹の中には何もないという「一面的」な人物もいる。

北条時政(坂東彌十郎)や、和田義盛(横田栄司)らは坂東武士らしく、腹蔵なく、感情のままに動く人物として描かれている。

力が必要なときは重宝されるが、やがて不要になる。

「一面の武士」たちは「二面性の政治家」によって追放、粛清される運命にある。

粛清の予感がすでに漂っている。

そのあたり、空恐ろしいドラマである。

鎌倉政権は仁義なき戦いの連続

鎌倉政権は武力で打ちたてた政権であるから、ある種の暴力的な集団でしかないとも言える。

鎌倉政権の歴史は「暴力集団の抗争史」のようである。

“仁義なき戦い”の連続でしかない。

のちに歴史の勝者になる者は、もともと「清く正しい部分」があったと描かないといけない。

でも人を殺し続けて権力を奪ったという歴史事実を無視するわけにもいかない。

だからメインの登場人物たちは、分裂したような性格を見せる。

それはそれでコミカルな気配がして見ていて楽しいのであるが、狙いは「権力奪取のための闘争(かなりの陰惨な殺人をふくむ)」を正当化するためのものだろう。

ちょっと恐ろしい風景でもある。

北条義時が国のシステムを「表と裏があるもの」にした

そもそも、北条義時は、この国のシステムを「表と裏があるもの」にした張本人の一人である。(もちろん彼一人の力ではないが)

それまで「京都朝廷」だけが政権中枢であったこの国に、その朝廷を倒さずに、国内にもうひとつ別の権力を樹立したのが北条義時らの坂東武者である。(もちろんきっかけは源頼朝が作ったのだが、確定したのは義時である)

承久三年の変事は、そのまま近代になってもその構造が崩れず、令和四年もまだ、義時らの作った体制が続いている。と見ることもできる。(後鳥羽上皇の末裔がわが国の国家元首であり、でも政治を動かしているのは別の機関である)

三谷幸喜にしてやられている

「単純政権構造」から政権転覆をなさず、「複層政権構造」をもたらした北条義時たちは、つまり、裏を作った男ということになる。

そりゃまあ、出てくる人間も裏も表もある分裂気味の人として描かざるをえないだろう。

それがまたそこはかとないユーモアになっているのが、三谷幸喜作品のすごみでもある。

傍目にはユーモラスに見える人たちではあるが、そのちぐはぐさがもとになって、手を血に染めて、政権中枢へと迫っていくことになる。

二面性はユーモラスな雰囲気を醸しだし、同時に多くの悲劇を生み出していく。

三谷幸喜の描く軽やかなテンポは、次々と政敵を殺していくさまを見やすくしているばかりである。

あらためてとても「恐ろしい」ドラマだと気付く。

「八重姫の結局の悲劇」はいろんなことを暗示しているように見える。

これはもう、怖いものみたさで、ひたすら見続けるしかない。

三谷幸喜にしてやられているようにおもうが、しかたのないところである。

コラムニスト

1958年生まれ。京都市出身。1984年早稲田大学卒業後より文筆業に入る。落語、ディズニーランド、テレビ番組などのポップカルチャーから社会現象の分析を行う。著書に、1970年代の世相と現代のつながりを解く『1971年の悪霊』(2019年)、日本のクリスマスの詳細な歴史『愛と狂瀾のメリークリスマス』(2017年)、落語や江戸風俗について『落語の国からのぞいてみれば』(2009年)、『落語論』(2009年)、いろんな疑問を徹底的に調べた『ホリイのずんずん調査 誰も調べなかった100の謎』(2013年)、ディズニーランドカルチャーに関して『恋するディズニー、別れるディズニー』(2017年)など。

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