新田次郎忌 高層気象観測の基礎「ラジオゾンデ」開発などに尽力し、戦争中の処女作に無人気象観測所構想
訂正と追加(2月15日13時):2月15日8時過ぎの最初の記事では、「新田次郎が中央気象台に入ったとき、叔父の藤原咲平が中央気象台長としていました」と書きましたが、中央気象台長になったのは昭和16年7月ですので訂正します。また、ラジオゾンデの奥付の一部追加などを行いました。
昭和55年(1980年)2月15日、直木賞作家の新田次郎が満67歳の生涯を閉じています。
作家としての評価が高いのですが、現在の高層気象観測の基礎である「ラジオゾンデ」の開発などに尽力した功績は大きいものがあります。
親子でベストセラー作家
神田電機学校(現:東京電機大学)に学びながら、「お天気博士」として世間に広く知られていた叔父の藤原咲平が活躍していた中央気象台に入った藤原寛人(ひろと)は、富士山勤務につきます。
その後、両角ていと結婚し、昭和18年には満州国の中央観象台に、高層気象課長として転職し、そこで次男・正彦が誕生します。
藤原寛人の転職は、藤原咲平が昭和16年7月に中央気象台長となったことで周囲との関係が難しくなったり、帝国大学を中心とした学歴社会の中で限界を感じていたのかもしれません。
昭和20年8月9日のソ連参戦によりソ連軍の捕虜となり、中国共産党軍にて一年間抑留生活を送ります。妻の藤原ていは、6才の長男、3才の次男、生後1ヶ月の長女の3人の愛児をつれて命からがら日本に帰国し、その時の体験をもとに「流れる星は生きている」というエッセイを書き、これがベストセラーになっています。
これに刺激され、藤原寛人は、新田次郎のペンネームで「強力伝」を書き、昭和26年のサンデー毎日第41回大衆文芸の現代の部一等に輝き、以後、気象庁勤務のかたわら、作家活動をはじめます。富士山頂の気象観測所に物資を運ぶ人たちを描いた「強力伝」は、昭和31年に直木賞を受賞しています。
富士山頂の気象レーダー建設の責任者(気象庁測器課長)となるなど、気象庁の画期的な業務を推進し、昭和41年に依願退職後は、小説家として「八甲田山死の彷徨」「武田信玄」「富士山頂」などの気象や地形などに関するリアルな筆致で、ベストセラーを数多く書いています。
そして、数学者となった息子の藤原正彦も、平成17年(2005年)に「国家の品格」というベストセラーを書いています。
ラジオゾンデによる高層気象観測
天気予報のためには高層の大気の状態を観測する必要があり、大正時代から風船に水素をつめて上空へあげ、その動きを地上から望遠鏡で追跡する方法が採用されていました。これにより、日本上空の強い風、ジェット気流が発見されたのですが、この方法では風向風速しかわかりませんでした。
太平洋戦争が始まる少し前頃から、風船に気温や湿度などを観測する機器と無線通信機を載せ、地上に観測結果を送信する「ラジオゾンデ」という方法が考えられ、各国がその開発にしのぎをけずります。
中央気象台(現在の気象庁)での開発は、無線技術にたけた藤原寛人でした。
現在も、高層気象観測は、ラジオゾンデで行われます。
1 日に2回、使いすての気象観測器を気球につるして飛揚し、地上から上空約30キロメートルまでの気圧、気温、湿度、風向、風速を観測しています(図1、図2)。
上空ほど気圧が低くなるので、気球は上空にゆくほど膨らんで大きくなり、破裂して役目を終えますが、観測測器は、クッションで覆われ、気球破裂後にパラシュートで落下するように設計され、安全への配慮がなされています。また、環境に配慮するため、素材もできるだけ自然に存在するものを使用しています。
処女作の「ラジオゾンデ」
藤原寛人が「ラジオゾンデ」を刊行したのは、昭和17年9月15日、すでに太平洋戦争は始まっていました。私の手元にあるのは、昭和18年8月10日の三版(2000部)です(図3、図4)。
物資のない中、一般向けの本としてはかなり売れた本と思われます。
新田次郎の処女作は「強力伝」ということが言われます。
小説としては、そうかもしれませんが、一般向けの本というと、この「ラジオゾンデ」です。
非常にわかりやすい解説に加え、ドイツやアメリカなどの諸外国の最新事情にも、かなりのスペースがさかれています。
ただ、その割には、日本の最新事情については書かれていないという印象を受けました。時節柄なのかもしれません。
無人気象観測所の構想
藤原寛人が書いた「ラジオゾンデ」には、次のような無人気象観測所についての記載があります。
アメダスにつながる構想
台風等の災害から日本を守るために富士山頂に気象レーダーを作る計画は、藤原寛人が責任者となって実現します。その経緯は、新田次郎が書いた「富士山頂」、それを映画化した「富士山頂(石原裕次郎主演、藤原寛人役は芦田伸介)」で多くの人が知ることになりました。
富士山頂の気象レーダー構想と同じ頃、気象庁には、国内に無人気象観測所を細かく配置し、防災に役立てようという構想もありました。
これは、気象庁の気象観測責任者である測候課長の木村耕三が、戦争中に満州で軍務についていたとき、各地の通信部隊から天気を報告させていた経験から、簡単な観測であっても、数多くの観測所を配置し、随時データを集めることが重要という考えかたによるものです。
測候課長の意向は、観測のための機器を作る責任者の測器課長の藤原寛人に伝えられます。戦争中の「ラジオゾンデ」の中で、すでに無線を使って観測資料を集めることを考えていた藤原寛人は、技術的に先をいっていた案を持っていたかもしれませんが、結果的には予算的に実現可能な木村耕三案に協力したと思われます。
そして、電話回線を通じて観測データを集めるという木村耕三案が採用され、木村耕三によって「アメダス」と名付けられた無人気象観測システムは、画期的な防災成果を出し続けています。
気象人としての功績
電波等を使って遠くから素早く観測する技術が進んでも、より正確に観測するためには、直接その場所での観測との更正が欠かせません。
今でも新田次郎さんが開発したラジオゾンデ技術が使われているのは、観測機器を上空にもってゆき、そこで直接観測するための方法として、今でも一番経済性が高い方法であるからです。
新田次郎さんとは、気象庁で一度お目にかかっただけですが、気象庁退職後、離島や山頂など、人里離れたところで気象観測を継続して行っている気象庁職員のために、毎年のように本を寄贈していたという話は何度も耳にしております。
新田次郎さんの、気象人としての業績を忘れることはできません。
図の出典:饒村曜(2012)、大気現象と災害、近代消防社。