源頼朝の兄の義平は「悪源太」と称されたが、本当に悪い男だったのか
864年前の永暦元年(1160)1月25日、源頼朝の兄の義平が斬首された(没年は諸説あり)。義平は「悪源太」と称された人物であるが、本当に悪い男だったのか考えてみよう。
永治元年(1141)、義平は義朝の長男として誕生した。母は橋本の遊女(『尊卑分脈』)、あるいは三浦義明の娘(『清和源氏系図』)と伝わっている。
頼朝や義経とは、母が違う。頼朝は義朝の三男だったが、母が熱田大宮司の藤原季範の娘だったので、最初からもっとも有力な後継者候補だったといわれている。
義朝は父の為義と折り合いが悪く、それゆえ為義は義賢(義朝の弟)をかわいがっていた。やがて下野守になった義賢は、武蔵の豪族の秩父重隆の娘を妻に迎えたのである。
義賢が版図を拡大することに危機を感じた義朝は、子の義平に命じて、義賢と重隆を秩父の大蔵館で討たせた(大蔵合戦)。久寿2年(1155)のことなので、当時、義平は15歳の少年だった。おそらく元服後の初陣となろう。
義平はその優れた武勇から、「悪源太」と称された。「悪」には、正義、道徳、法に反する行為を行う文字どおり「悪い」という意味がある。
一方で、人名や官職に接頭語として「悪」がつく場合は、その人物の才能、性格、行動がずば抜けていることを意味する。たとえば、藤原景清は、「悪七兵衛」と称された。義平が「悪源太」と呼ばれたのも、同じ理屈である。
平治元年(1159)12月、平治の乱が勃発した。義朝は藤原信頼と協力し、藤原信西と平清盛と戦った。戦いは二条天皇を引き入れた清盛が有利となり、義朝は敗れ去った。
敗北を喫した義朝らは、本拠のある東国を目指して落ち延びた。一行が逃げる途中で、頼朝ははぐれてしまった。義平の弟の朝長も負傷し、その怪我がもとで亡くなったのである。その後、義朝も殺害された。
義平は逃亡の途中で義朝の一行から離れ、東山道から東国へ落ち延びようとした。その理由は不明であるが、二手に分かれた場合、片方が討たれても、もう片方が生き残るとでも考えたのだろうか。あるいは、敵の目をくらますための作戦だったのだろうか。いずれにしても、共倒れのリスクを避けた可能性はある。
翌永暦元年(1160)1月、義平は捕らえられて、その後、京都の六条河原で斬られた。義平が斬られた日については、『尊卑分脈』が1月21日とするなど諸説ある。『平治物語』は1月25日である。その首は、獄門に晒されたという。