【茅ヶ崎】夏の海、耳をすませば聞こえてくる―“湘南サウンド”のルーツを辿る企画展「海と音楽の近代史」
加山雄三、サザンオールスターズに代表される、夏を彩る「湘南サウンド」。
海、太陽、サーフィン…夏の情景が生き生きと描写される曲たちには、時には「烏帽子岩」「江の島」といった湘南のシンボルも登場し、ミュージシャンらのファンに“聖地”として親しまれていることも。
こうした湘南サウンドが、今日のように「湘南」の名が全国区に知れ渡ることとなる一端を担ってきたことは間違いないでしょう。
茅ヶ崎市博物館では、「海と音楽の近代史 ~『湘南サウンド』前夜~」と冠し、茅ヶ崎の海と音楽をめぐる文化の歩みを振り返る特別展を開催中です。
「海水浴」は遊びじゃない? 当初は医療行為・健康法として日本へ
今でこそ、夏の海は海水浴やマリンスポーツに訪れた人で賑わい、レジャースポットのイメージも強いですが、かつて日本には海で遊ぶという文化は無かったのだとか。
「海水浴」は明治時代に西洋から伝来したもので、当時の読み方は「ウミミズユアミ」。海に入ったり、または海水をくみ上げて温めたお湯に浸かる、海風にあたる等、海という環境を利用して健康を促進したり病気を治療する行為を指し、一種の医療行為で、あまり娯楽性の強いものではありませんでした。
湘南エリアで初の海水浴場が開かれたのは大磯で、旗を振ったのは陸軍軍医総監も務めた松本順(1832~1907)。
※上写真はWikipediaより引用。企画展の展示ではありません
軍医を引退後、民間の公衆衛生の啓蒙に熱心だった松本は「病気に罹ってから薬で治療するのではなく、健康な体を作り、病気に罹らなくなることが大切」との考えを基に、「牛乳の飲用」や「海水浴」などの健康習慣を奨励。
海水浴に適した土地を求めて全国を巡った後、1885(明治18)年、本格的な海水浴場第1号を大磯に開設しました。
松本順は海水浴を日本に広めるべく、海水浴のやり方を詳しく解説した入門書「海水浴法概説」を出版するほか、海水浴をする人たちを描いた錦絵を制作するなど、イメージ戦略にも取り組んでいました。
海水浴普及に対する、氏の熱意が伝わってくるようです。
上図の右サイドには着物のまま佇み、外気浴をしているらしき女性。中央には岩場に座って足だけを海水に浸けている姿。左奥には水着に着替えて腰まで浸かる姿と、それぞれ異なる形で海水浴を行う人々が描かれています。
中央にいる女性が着ているのは、ワンピースタイプの水着で、その模様から「シマウマ水着」と呼ばれ、明治後期~大正までの間流行したそうです。
最初のうち、海水浴は当時の別荘文化とも結びついており、都心に住みながら湘南エリアに別荘を持っているような、経済的に豊かな人達を中心に愛好されていました。
しかし時代が進むにつれ、より広い層の人々が海に訪れるように。海水浴は一気にレジャー化が進み、昭和初期の写真には浜辺に広がるたくさんのパラソルやテントの他、公園の様な遊具や空を飛ぶグライダーの姿まで見られるなど、一種のテーマパークの様な様相が広がっています。
板子と呼ばれる木の板(今で言うビート板)を利用し、波に乗る「板子乗り」も流行しました。海水茶屋(海の家)では板子の貸し出しも行われ、当時の海辺を映した写真や絵葉書にはしばしば板子や板子乗りをする人々の姿が見られます。
茅ヶ崎にサーフボードがやってきた! “早すぎた”サーフィンの伝来
そして1927(昭和2)年。湘南サウンドの重要なアイコンの1つ、サーフィンが新聞記事に登場します。ロケーションはなんと、ここ茅ヶ崎。
同年6月30日の「横浜貿易新報」(現在の神奈川新聞)によれば、当時の茅ヶ崎町長・新田信(にったのぶ)が、「布哇(ハワイ)式波乗板」、つまりサーフボードを地元へと取り寄せたそう。これこそが、日本最古級のサーフボードであると考えられるのだそうです。
ただ、ここから日本でのサーフィン文化が花開いたかというと、残念ながらそうではなく、この時点では日本に定着するまでには至らなかったのだとか。
一説には、この後空白の期間を経ての1960年代、進駐軍の米兵らが日本のビーチに持ち込んだことが本格的な普及のきっかけになったということです。
この時、町長主導のもと茅ヶ崎にやってきたサーフボードがコチラ!
なんと現存しています。一枚の板を削り出して作られており、長さは約2.7m。見た目にも重厚感があります。
前段に登場した茅ヶ崎の老舗旅館・茅ヶ崎館が所蔵しているもの。
展示室入口付近には茅ヶ崎市博物館が所蔵しているレプリカが展示されています。
海、町が開けていくのと時同じくして、音楽の文化が息づく町へ
続いてのコーナーでは、いよいよ茅ヶ崎の「音楽」発展のルーツを紹介。
茅ヶ崎に海水浴場が開設されたのと同時期の1898(明治31)年6月、「茅ケ崎駅(当時の名称は茅ケ崎停車場)」が開業。
前年には茅ヶ崎の中央を走る鉄砲道沿いに、九代目市川団十郎が別荘・孤松庵(こしょうあん)を構えたのを皮切りに、「松と麦と桑と甘藷(かんしょ=サツマイモ)の外、眼をなぐさむるものなし」(国木田独歩「病床録」より)という様子だった茅ヶ崎は開拓され、別荘地化が進んでいきます。
「オッペケペー節」で知られる川上音二郎(1864~1911)が現在の高砂緑地に自宅を建てたことは有名ですが、壮士節(明治の自由民権運動の活動家が歌う街頭演歌)に影響を受け、社会を風刺する歌を物した演歌師・添田唖蝉坊(そえだ あぜんぼう1872~1944)も、わずかですが茅ヶ崎住まいの経験が。
自由民権運動が盛んだった明治時代を代表する「声」とも言われる2人が、奇遇にも茅ヶ崎に縁があるというのは不思議です。
唖蝉坊が住んでいたのは茅ヶ崎駅北口側、今で言うエメロード商店街のカラオケ屋さんになっている所。個人的に職場の近く過ぎてちょっとびっくり。当時の地図も展示されていて、身近なだけに興味深かったです。
その他にも、童謡「赤とんぼ」でお馴染みの山田耕筰、「上を向いて歩こう」「こんにちは赤ちゃん」など数々のヒット曲を生み出した作曲家・中村八大、そして湘南サウンドの大家・加山雄三さんに至るまで、茅ヶ崎で生まれた音楽の系譜がパネルや文献資料で一覧できます。
「100年以上前の明治時代から茅ヶ崎には海の文化が根付いていて、多くの才能がこの土地へと集まり、足跡を残しています。海に、サーフィンに、音楽…そんな湘南・茅ヶ崎の町がどのように出来ていったのか、歴史を知れば、身近な景色がより面白いものになるのではと思います」(担当学芸員・渡部さん)
展示を順々に見ていると、茅ヶ崎が開かれて以降、脈々と音楽との縁が続いてきたことには、結核療養施設も置かれたほどの、住みよい風土も影響したのでは、と思えてきます。
そうして生まれた湘南サウンドの明るくエネルギッシュな音楽性は、閑静な療養地だった湘南が現在のイメージへと変貌する過程に多大な影響を与えていることでしょう。
海と音楽は互いに響き合い、多くの人に愛される今日の湘南になった。そんなドラマが垣間見えました。
※企画展示室内は撮影禁止のため、今回は特別に許可をいただきました。
茅ヶ崎市博物館 夏の特別展「海と音楽の近代史 ~『湘南サウンド』前夜~」
会期:2024年7月20日(土)~10月14日(月・祝)
場所:茅ヶ崎市博物館 企画展示室
時間:9時~17時(最終入館16時半)
アクセス:JR「茅ケ崎」駅北口よりバス「堤坂下」または「湘南みずき」下車、いずれも徒歩約15分
休み:月曜休館(祝日の場合開館、翌平日休み)
料金:無料
問合:TEL0467-81-5607
茅ヶ崎市博物館HP
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【同時開催】
「写真とことばで知る 茅ヶ崎の関東大震災」
会期:2024年9月1日(日)~10月14日(月・祝)
場所:茅ヶ崎市博物館 市民交流スペース