【光る君へ】藤原氏の権力基盤を築いた藤原兼家の最期と子の道隆のしたたかさ
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原氏の権力基盤を築いた藤原兼家がついに亡くなった。その模様も含めて、兼家だけでなく後継者の道隆の行動を確認することにしよう。
寛和2年(986)6月、花山天皇が退位したので、一条天皇が即位した。兼家は一条天皇の外祖父だったので、ただちに摂政に就任し、実権を掌握した。さらに、その後は我が子の道隆、道兼、道長を次々と昇進させ、藤原氏の盤石な体制を築き上げたのである。
永祚2年(990)1月に一条天皇が元服すると、兼家は自ら加冠役を務め、その権威を誇示した。ところで、『栄華物語』によると、それ以前から兼家は病気だったという。そこで、病気の平癒を願って祈禱を行ったが、物の怪が祟っていることのことで、兼家は東三条院に移った。
しかし、兼家の病状は悪化する一方で、ついにすべての職を辞して、出家したのである。この場合の出家とは、僧侶になるためのものではなく、死後、極楽浄土に行くための準備である。兼家がすべての職を退いた後、摂政の座に就いたのが、子の道隆である。
兼家の病状が重かったので、周囲の人々は非常に心配したが、道隆は娘の定子を一条天皇に入内させることを急いだ。実は、道隆の周りの人々が「摂政、関白になれば思いのままだ」と唆したからだという。こうして定子の入内が進められたが、人々は「兼家が重篤なのに、なぜ入内を延期しないのか」と非難した。
道長は中宮大夫に任じられたが、「立后するとはけしからん。おもしろくないことだ」と手厳しく非難し、中宮の御方に参らなかったという。この逸話は、道長の気性の荒さを伝えている。
こうして同年7月2日、容態の悪化していた兼家は亡くなったのである。享年62。人々は、「70、80歳まで生き長らえる人もいるのに」と残念がったという。その後、兼家の葬儀が執り行われたが、盛大なものだったという。
以上の話は、歴史物語の『栄華物語』によるものである。そして、驚くのは子の道隆の行動で、兼家の後継者になると、定子を一条天皇に入内させるなど、すぐに手を打った。父の病状はお構いなしなのだから、どう評価したらいいのかわからない。