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戦国時代も長寿社会だった!? 100歳を超えて生きた人物 ベスト5

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
(提供:イメージマート)

 我が国の国民の平均寿命は、年を追うごとに伸び、今や100歳を超えるなど珍しくない。実は、戦国時代にも100歳を超える長寿の人々がいたので、紹介することにしよう。

◎第5位 石田重家(1586?~1686) 101歳

 重家は三成の子である。誕生年は諸説あるが、今は天正14年(1586)生まれの可能性が高いとされている。慶長4年(1599)閏3月に父が失脚すると、代わりに出仕を命じられた。慶長5年(1600)9月の関ヶ原合戦で西軍が敗北し、父は捕らえられ斬首された。

 重家は大坂城にいたが、脱出して京都の妙心寺で出家して宗享と名乗った。その後、重家は家康から許され、妙心寺の塔頭壽聖院を住職の伯蒲慧稜から引き継いだ。重家が亡くなったのは、貞享3年(1686)閏3月8日のことである。

◎第4位 木幡高清(1537~1642) 106歳

 高清は、懿清の子として誕生した。主君は相馬氏で、高清は非常に長命だったので、相馬顕胤、盛胤、義胤、利胤、義胤の5人に仕えたという。

 ただ、残念ながら、高清の生涯については不明な点が多く、利胤の後見人になったこと、史書編纂を担当したことなど、断片的なことしかわかっていない。高清が亡くなったのは、寛文5年(1665)9月14日(4日との説もあり)のことである。

◎第3位 天海(1536?~1643) 108歳

 天海の生年には諸説あるが、慶長14年(1599)頃から徳川家康に仕えたという。家康の没後は、秀忠、家光に仕えた。家康が亡くなった際、天海は家康を権現とし、山王一実神道で祀ることを主張した。上野の寛永寺を創建し、江戸の都市計画にも関与したことで知られる。

 また、大蔵経の出版を計画し、それは死後になって実現した。なお、明智光秀と天海が同一人物だったという説が、それは事実無根の妄説である。天海が亡くなったのは、寛永20年(1643)10月2日のことである。

◎第2位 滝川益氏(1527~1635) 109歳

 益氏は前田利益の子と言われたり、滝川一益の従弟とも言われたりするが、詳細は不明。一益の配下にあったことは間違いない。天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、一益に従って上野国に入った。

 しかし、3ヵ月後に勃発した本能寺の変の影響もあり、益氏は一益とともに本国の伊勢国へ逃げ帰った。信長の死後、羽柴秀吉が台頭すると、一益は対抗したたもの、最終的に屈した。その後の益氏の動向はほとんどわからなくなり。寛永12年(1635)に亡くなったというが、少し疑問が残る。

◎第1位 渡辺幸庵(1582~1711) 130歳

 幸庵の前半生については不明な点が多く、父の名すらわからない。その生涯は、『渡辺幸庵対話』に記録されている。幸庵が仕えたのは徳川家であり、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では徳川秀忠に従ったという。その後、徳川忠長の傅役に起用されたが、忠長が改易のうえ切腹になったので、牢人生活を送ることになった。

 牢人中は中国などに渡航し、加賀前田家に身を寄せることになった。その頃に書かれたのが『渡辺幸庵対話』であり、さまざまな不思議な話を載せている。幸庵が亡くなったのは、宝永8年(1711)のことであるが、あまりに長命なので不審でもある。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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