壊れた原発と暮らすということ。
けたたましいサイレンと共に、避難を呼びかける放送が町に鳴り響く。11月22日、朝焼け前に起きた福島沖地震は社会中に大きなインパクトを与えました。
筆者が暮らす福島県いわき市は全国にその模様が流され、筆者自身も高台から海の様子を眺め、ただただ見守るしかないそういった状況にいました。
眼下では大急ぎで高台に向かう車両、海抜の低い場所には人も車もいなくなり、静けさの中サイレンだけが鳴り響き、逃げ遅れた人がいないか津波が来るという放送の中、パトカーが走り回っている。
まるでそれはあの日そのものを見ているような錯覚に陥るものでした。
無意識に薄れていた防災意識
いつの日から身の回りに防災グッズが消えてしまったのか、高台に逃げようからの先、どうしたら良いのかが中々上手く進みません。
取りあえず待機、TVと海と防災無線に意識を向けるものの、やっていることは立ち尽くしてただ見守るという姿。結果、いわき市に住みながら、いわき市小名浜漁港の様子をTVで延々と眺めるという結果に。
あの日から何を学んだのか、活かせてもいない事実に被災当事者という身でありながら、防災意識という言葉すら忘れていたことに気づきました。
壊れた原発と暮らしているんだという自覚
原子力事故から6年目、避難区域は縮小し来年度以降には、福島県双葉郡浪江町(11月から準備宿泊が始まった町)では福島第一原発が自分の目で見える距離の生活が現実のものとなります。
全国的に津波の模様が流れたいわき市も、近い場所では直線で30km圏内に入ります。
津波を見ながら、筆者の頭の中には原子力事故当時の経験が次々と呼び起こされます。当時、原発構内にいた人間としての恐怖感も襲ってきました。
TVでは福島第二原発での使用済み燃料プールの冷却が一時的に停止したことが大きく取り上げられ、また福島第一原発の様子についても緊急で放映されました。
委ねるしかない状況、分からないという恐怖、この程度の違いはあれども全国的に共有できたものと思います。
それでもここで暮らすしかない
原子力事故による放射性物質による汚染は現在も、ふるさとへ戻れぬ状況を残しています。そして放射線被ばくという観点からは問題がないと避難は解除され、長らく離れたふるさとへ戻られた方々がいます。
社会中からなぜ戻るんだ、なぜ住んでいるんだと問われ続け、時には原子力事故に被災したことがいじめにまで発展しています。
それでも、ここで暮らす術しか持たないという現実、そして愛すべきふるさとにいたいという思いで暮らす日々は、壊れた原発とも暮らさなければならない状況にあります。
それがいかに揺らぎやすく、不安定なものの上に成り立っているか、今回の地震・津波で改めて痛感した次第です。
原子力事故による放射性物質による汚染を少しずつ克服しふるさとを取り戻していく、かつ社会からの目に晒され続ける日々。
ブラックボックス化し安全なものとして、共に壊れた原発と暮らさなければならぬ日々。
それを丁寧に支えてくれる仕組みもまだ構築されていないこと、そして乗り越えていくための術や知識を持たぬまま生活せざるを得ないこと。
原発事故と東日本大震災はまだ終わっていない、渦中にいるんだという痛感が今も心に響いています。