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吐血地獄からの生還

田中良紹ジャーナリスト

 この度は長期にわたりブログを休止してご心配とご迷惑をおかけしました。2か月にわたる入院生活を終え昨日無事に退院したところです。ブログを復活させますので今後ともよろしくお願いいたします。

 4月6日、私は普通に生活していた。午後2時から日本記者クラブで開かれた佐藤博樹東京大学名誉教授の「人口減少80万人割れの衝撃」という会見をオンラインで見た後、近所の区立図書館から借りていた本を返却しに行き、自宅に戻ってトランプ米前大統領が起訴された問題でブログを書こうとしていた。

 ところが家でパソコンの前に座った途端、急に気持ちが悪くなり、トイレに駆け込むと大量の血を吐いた。冷汗が滝のように流れ、倒れ込むしかなかった。吐血は生まれて初めての経験だった。しばらくじっとしているとどうにか動けるようになり、家人に病院に行く手配をしてもらった。

 タクシーで近くの大病院に行くと、病室で再びビニール袋一杯の血を吐いた。寒さで震えが止まらなかった。医者は「胃にできた腫瘍が破れて出血した」と言い、入院して出血を止めるカテーテル治療が行われた。

 麻酔から覚めると私は集中治療室にいた。1分ごとに吐き気が襲い、無意識のうちに下血が繰り返される。最悪の状態だが、不思議に意識だけははっきりしていた。そして集中治療室にあったカレンダーを見るうち、36年前の4月8日に同じ病院で大腸がんの手術を受けたことを思い出した。

 それは人生初の大病で、それがそれまでの私の人生を変え、一介のテレビマンだった私が会社を辞め、国会審議を専門に放送する「国会テレビ」の創設に乗り出すきっかけとなった。奇しくも同じ時期に同じ病院で私は2度目の大病を患うことになったのである。

 記憶は次第に鮮明になる。35年前の2月26日、総理に就任したばかりの竹下登は旧佐藤栄作邸でごく内輪の誕生会を開き、そこに私も招かれていた。その帰りに腹が痛み出し、たまらず検査を受けると、大腸がんで手術をしなければならないことが判明した。

 入院前夜に「最後の晩餐」を共にしたのは金子仁洋桐蔭横浜大学教授である。金子は東大で丸山眞男の弟子でありながら警察官僚になった異色の人物で、退官後は『官僚支配』(講談社)や『政官攻防史』(文春新書)などの本を書き、大学で日本政治史を教えていた。

 明治以来の日本の政治は常に官僚にコントロールされ、議会政治は連戦連敗を繰り返したというのが金子の主張である。戦前は官僚支配に抵抗する政党政治家もいたが、戦後は与党と官僚が一体化し、議会は完全に無力化された。ところが国民は与野党の対立に目を奪われ、官僚支配の実態を知らない。

 官僚であったにもかかわらず金子は官僚支配に抵抗した田中角栄や渡辺美智雄を評価していた。金子を私に紹介してくれたのは作家の野坂昭如だが、私が田中派担当の記者だったことから、金子とは一緒に勉強会をやる関係になり、金子は私を「日本に民主主義政治を実現するための同志」と呼んでくれた。

 金子は「最後の晩餐」で「必ず戻って来いよ」と言った。入院した日の東京は満開の桜に大雪が降るという異常気象だった。手術は無事に成功し、1か月後に退院した私はそれまでのような政治記者ではなかった。

 そもそも私は世界を舞台にドキュメンタリー番組を作るディレクターで、政治記者になる気などさらさらなかった。それが政治に近づくきっかけとなったのは、1976年に起きたロッキード事件で児玉誉士夫を取材したからである。

 ロッキード事件は、米国の軍需産業ロッキード社が西側各国に秘密代理人を置き、それを通じてそれぞれの国の政治家に賄賂を流し、航空機を買わせようとしていたことが、米国上院の多国籍企業小委員会で暴露されたことから始まった。

 西ドイツの国防大臣、イタリアの副大統領、オランダ女王の夫など米議会で名前が暴露された秘密代理人はいずれも反共主義者で、日本では右翼の大物で自民党の前身である自由党に結党資金を提供し、政界に隠然たる力を持っていた児玉だった。

 小泉政権の頃、米国はCIA関連の機密文書指定を一部解除し、児玉がCIAの許力者であったことは今では周知の事実だが、当時は右翼民族派がなぜ米軍需産業の手先であるのかが分からなかった。

 私は戦前の児玉が海軍の特務機関を組織し、中国で謀略活動を行っていたことから、その児玉機関のメンバーを次々に取材していった。すると「児玉を追及すると殺されるぞ。赤坂で酒など飲まない方が良い」とあちこちで言われた。赤坂には児玉の息のかかった店が多いと言うのだ。

 そして赤坂は米軍に支配された街であることを知った。当時の赤坂には米軍将校専用の「山王ホテル」があり、そこでは米軍と日本の官僚が定期的に会合を開いていた。「日米合同委員会」というが、それが日本の政治を動かしている。しかし内容は国民に公開されない。赤坂にナイトクラブやディスコが先駆けて出来たのも米軍支配と無関係ではなかった。

 ある日、私のデスクにTBSのOBと名乗る人物から電話があり、「君は何年入社だ。余り変なことを聞きまわるなよ」と言われた。先輩に尋ねると、TBSの創業期の幹部には児玉機関のメンバーがいたというのだ。

 そのうち社の倉庫から池上本門寺で営まれた児玉の「生前葬」の記録フィルムが発見された。それは取材用ではなく贈呈用に撮影されたもので、TBSは児玉の息のかかったテレビ局だった。その記録フィルムや児玉機関のメンバーから手に入れた戦前の写真を素材に私は1時間半のドキュメンタリー番組を制作した。

 さらに私は占領期の日本で暗躍した米国の謀略機関「キャノン機関」の取材に取り掛かろうとしたが、社の命令で戦後史の発掘作業は中止された。三木総理の要望で日本の検察に米国から資料が提供され、収賄政治家の取材に備えるためだという。4月中旬、私は東京地検特捜部を担当する記者となった。

 そして7月、田中角栄前総理が突然逮捕され、日本列島は騒然となった。メディアは連日「田中金権政治」を批判したが、しかし検察は児玉から政界に流れた30億円の捜査に手をつけていない。児玉は事件発覚と同時に入院し、そのまま帰らぬ人となり、そのためロッキード事件は肝心の部分が未解明のままなのだ。

 児玉と最も親密だった政治家は中曽根康弘である。中曽根は防衛庁長官時代に自衛隊が使う兵器の国産化を主張していた。ロッキード社としてはそれをやめさせ、対潜哨戒機P3Cを買わせるため児玉を通して賄賂工作を行う必要性が十分にあった。現実にその後の日本はロッキード社製のP3Cを100機以上も購入した。

 田中は民間航空機の購入を巡り収賄容疑で逮捕されたが、私には違和感があった。しかし「田中金権政治批判」は猛烈な勢いで日本国民に浸透していく。ところが無実を訴える田中は、自民党内の派閥を膨張させ、数の力で内閣を操り、司法に挑戦し始めた。

 三木内閣の後の福田内閣、大平内閣、鈴木内閣はいずれも田中に従属しなければ政権運営がうまくいかず、田中は「闇将軍」と呼ばれるようになる。そして田中は派閥の反対を押し切って中曽根を総理にした。「俺を無罪にしなければならない事情がお前にはあるだろう」と田中が中曽根に迫っているように私には思えた。

 しかし刑事被告人が最高権力者を操る国とは何なのか。私は田中の選挙区である新潟の政治風土や自民党における田中の存在についてドキュメンタリー番組を作り続けた。そして一審判決が近づいた頃、志願して私は政治部記者になった。「田中の最後を見届けたい」との思いからである。

 政治部記者の世界は権力者に取り入るため記者たちが創意工夫を凝らす世界である。しかし当時の田中には誰も接近することができなかった。一審有罪判決を受けて野党は議員辞職を要求し、国民世論も田中に厳しかった。それをかわすため田中は「自重自戒」と称して政治活動を自粛し目白の私邸に籠っていた。

 ところが田中の秘書の早坂茂三と大喧嘩をした私は、逆に気に入られたのか、早坂から「おやじの話の聞き役になってくれ」と頼まれた。私邸に籠った田中は暇を持て余して困っているという。早坂が指定する日に私は目白の私邸を訪れ、昼食を取りながら田中の話の聞き役をすることになった。

 田中は機関銃のように喋りまくった。子供の頃の思い出から現状の政治批判まで話は多岐にわたり、毎回が目から鱗だった。官僚とは全く異なる視点から物事を考える政治家であることがよく分かった。その中で最も衝撃だったのは「日本に野党はない」と言ったことだ。

 メディアは自民党を与党、社会党や共産党を野党と呼び、対立関係にあると報道してきた。ところが田中はそれを否定する。いぶかる私に田中は「社会党は過半数の候補者を擁立しない」と言った。つまり権力を奪うことを自ら放棄しているというのだ。代わりに野党は憲法9条を守ることに力を入れていた。

 しかしそもそも憲法9条の非武装を強く主張したのは自民党の吉田茂で、共産党の野坂参三は自衛の軍隊を持つべきだと主張し国会で激しく対立した。9条の戦争放棄は第一次世界大戦後の「パリ不戦条約」を下敷きにしたものだが、不戦条約では自衛戦争を認めている。世界の常識は共産党の野坂の主張の方だった。

 吉田は朝鮮戦争の勃発で米国から再軍備を求められた時、9条を盾に再軍備を拒み、後方支援に徹することで巨額の「戦争特需」を得た。それが目覚ましい戦後復興を生み、続くベトナム戦争でも「戦争特需」の恩恵にあずかり、日本は高度経済成長を実現した。

 日本人は平和憲法を守り非武装であることを世界に誇るが、それはアジア人民のおびただしい犠牲を生んだ2つの戦争を利用して米国から「特需」を得るためだったとは考えない。そして非武装と言いながら、米軍に訓練された自衛隊は強力となり、9条の内実は空洞化している。

 にもかかわらず野党は政権交代が可能な過半数ではなく憲法改正を阻止できる3分の1の議席を獲得目標にしてきた。そして中選挙区制はそれを可能にした。藤波孝生は私に自民党は野党の議席を減らさないようにしていると教えてくれた。

 何のためか。メディアや学者が9条の大切さを国民に説き、国民の多数は9条を守ることに賛成する。「9条を守れ」と訴える野党は米国に批判的であるため、米国が自民党政権に過大な軍事的要求をすれば政権交代が起き、ソ連に近い政権ができると米国に思わせる。

 野党は全く政権交代を考えていないのだが、米ソ対立がある以上、米国は自民党政権を延命させる必要があり、自民党はそれを利用して軍事に力を入れず経済だけに力を集中し、経済成長のエンジンとした。それが自民党本流の「軽武装、経済重視路線」である。

 それに国民も米国も騙された訳だが、しかし日本は世界が驚く経済成長を実現したのだから国民はみなハッピーだった。ただそれには米ソ対立という冷戦構造が前提である。そして一方では経済的成功の裏側で野党が政権交代を目指さない政治構造が大きな歪みを生み出していた。

 政権交代がないのに国民が自民党政権を「独裁」と思わないのは、自民党の5派閥にそれぞれ総理候補がいて政策の切磋琢磨をし、その5派閥が2年ごとに総理を交代させていたからだ。国民が参加できない自民党総裁選挙が疑似的な政権交代をもたらした。

 つまり自民党という政党は1つの党ではなく、5派閥の連立政権だった。ところがメディアは「与野党が激突している」と報道し、同時に平和憲法を守ることの重要さを国民に浸透させ、国民から日本政治の実態を見えなくしてきた。

 報道と実態の違いを知って、私は早坂に「政治の真相を知っている記者はどれほどいるのか」と尋ねた。「3割だな」と早坂は言ったが、その3割は真相を報道しない。私も真相を書けなかった。書けば先輩、同僚の記事を全否定することになる。仮に会社を辞めてフリーになっても書けないだろうと思った。誰からも相手にされなくなるからだ。

 そしてより深刻だったのはNHKの国会中継だ。NHKは一部の審議しか中継しない。すると中継される審議はパフォーマンスの場となる。野党は激しく政権を追及し、ことあるごとに審議拒否を繰り返した。メディアは「与野党激突」と報道するが実は「激突」など全くなかった。

 竹下登がそのからくりを教えてくれた。国会が始まる前から自社の幹部は1対1で国会審議のシナリオを作る。審議拒否の日取りは1か月前から決まっていた。野党が審議拒否に入ると、自社1対1は裏側ですべての法案の帰趨を決める。「成立」、「廃案」、「継続」がすべて裏取引で決まる。

 野党は取引材料として賃上げやスト処分撤回などを要求する。そして決まったことは1対1が腹の中に収めて誰にも言わない。それを「ディス・イズ・ポリティクス」と竹下は言った。さらに竹下は野党に金を渡すやり方まで教えてくれた。

 テレビ中継で激しく政権批判をする野党政治家には金が流れるというのだ。田中は「俺のことを金権と言うが、本当の金権は社会党だ」とうそぶいた。そして田中は自身の「金脈問題」を全く気にしていなかった。「他の政治家は官僚と財界から金を貰い、官僚と財界に逆らえない。俺は自前で金を作った」と胸を張った。

 35年前の4月に大病を患った私は、退院後に旧郵政省担当を命ぜられた。NHKと新聞社だけで作る記者クラブに民放は加盟できないでいたからである。記者クラブ加盟を実現するのが私の仕事だった。新聞社やNHKが民放を認めない理由は、郵政省から免許を貰って商売する「業者」だからジャーナリズムではないというのだ。

 その郵政省で私は江川晃正という異色の官僚と出会った。何が異色かと言えば、NHK中心の放送行政に反発し、それまでの放送秩序を変えようとする官僚だった。それが私に「国会テレビ」を創設する気を起こさせた。(文中敬称略、つづく)。

ジャーナリスト

1969年TBS入社。ドキュメンタリー・ディレクターや放送記者としてロッキード事件、田中角栄、日米摩擦などを取材。90年 米国の政治専門テレビC-SPANの配給権を取得。日本に米議会情報を紹介しながら国会の映像公開を提案。98年CS放送で「国会TV」を開局。07年退職し現在はブログ執筆と政治塾を主宰■オンライン「田中塾」の次回日時:11月24日(日)午後3時から4時半まで。パソコンかスマホでご覧いただけます。世界と日本の政治の動きを講義し、皆様からの質問を受け付けます。参加ご希望の方は https://bit.ly/2WUhRgg までお申し込みください。

「田中良紹のフーテン老人世直し録」

税込550円/月初月無料投稿頻度:月3、4回程度(不定期)

「フーテン老人は定職を持たず、組織に縛られない自由人。しかし社会の裏表を取材した長い経験があります。世の中には支配する者とされる者とがおり、支配の手段は情報操作による世論誘導です。権力を取材すればするほどメディアは情報操作に操られ、メディアには日々洗脳情報が流れます。その嘘を見抜いてみんなでこの国を学び直す。そこから世直しが始まる。それがフーテン老人の願いで、これはその実録ドキュメントです」

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