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マケドニアが国名を変更。国旗も変更させたギリシャとの24世紀にわたる因縁と、忍び寄る中国とロシアの影

今井佐緒里欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者
2018年1月ギリシャのテッサロニキでマケドニア国名問題でデモをする人たち(写真:ロイター/アフロ)

マケドニアといえば、かのアレクサンダー大王を生んだ、古代のマケドニア王国が真っ先に思い浮かぶだろう。

料理好きな人なら「マケドニア風サラダ」を思い浮かべるかもしれない。

そのマケドニアが国名を変更することになりそうた。

ギリシャとマケドニアの両首相は6月12日、マケドニアの国名を「北マケドニア共和国」に変更することで合意したのだ。

じゃあそれまではどういう名前だったかというと、「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」という長ったらしい名前だったのだ。この日本語名はわかりにくいが「旧ユーゴスラビアのマケドニア共和国」という意味である。

こんな長い名前になる前は、シンプルに「マケドニア共和国」だった。しかし、ギリシャの猛烈な抗議により、1993年に国名を変更した。でもその妥協のおかげで、マケドニアは国連への加盟を果たすことができたのだが。

今回も、この合意でやっと、マケドニアは念願のNATO(北大西洋条約機構)やEU(欧州連合)への加盟の道が開かれることになった。国連のニメッツ特使が仲介役を務めたようだ。

ギリシャの無茶な要求

ギリシャは、マケドニアに対してかなり無茶な要求をしてきた。

上記のように国名を変えさせただけではなく、過去には国旗の模様も変えさせている。

マケドニアは、「ヴェルジナ(山)から太陽が昇る模様」を国旗に使っていた。「ヴェルジナの星」と呼ばれていた(ここには古代マケドニアの首都があった)。

これもギリシャが「それは、古代マケドニア王国とアレクサンダー大王のシンボルで、ギリシャ人にとってギリシャ民族の愛国のシンボルの一つだ。勝手に使うな」ということで、変えろと抗議した。

結局、1995年、ギリシャからの経済封鎖に負けて、マケドニアは国旗の模様も変えた。

マケドニア側は「自分の国の名前を自分で選ぶ権利はあるはずだ」と主張していたのだが・・・。

首都の国際空港の名前もそうだ。マケドニア側が「アレクサンダー大王空港」とつけたら、ギリシャ側が猛抗議して、こちらも変えることになってしまった。

こんな横暴な要求をする方もする方だが、受け入れる方も受け入れる方ではないか。そして常に、ギリシャの要求が受け入れられているのも、変な話だ。

かつては平和だったのに・・・

マケドニアであるが、いくら旧東陣営で国際的な立場が弱く、経済的に困っていても、国名を変えて国旗を変えて空港名を変えて、いくらなんでも従順すぎやしないか。

しかしこれには訳があるのだ。

マケドニアというのは、比較的民族意識の薄い土地なのだ。

この地を長らく支配したのは、東ローマ帝国の後は、オスマン・トルコである。そして、この地に住んでいた主な人たち(農民)は、7世紀ごろに南下してきたスラブ人である。ギリシャ語を話す人は、沿岸地域と都市部に住んでいた。つまり現在のギリシャ人に言わせれば「あなた方は古代マケドニアの子孫じゃないだろう! ギリシャ人じゃないだろう!」と言いたいわけだ。

マケドニアといっても、特に明確な境界線はなく、オスマン・トルコでは行政区分の地名ですらなかったという。

当時マケドニアの地には、とても多様な人が住んでいたのだ。

中心都市であるサロニカ(テッサロニキ)。ここは今ギリシャ領内にあり、首都アテネに次いで第2の都市である。かつて「垂涎の的である都市」と呼ばれた。

さまざまな言語がとびかうオスマン帝国の湾岸都市の典型で、靴磨きは6カ国の言語を話したという。さらに、最大のグループは、ギリシャ人でもトルコ人でもスラブ人でもアルバニア人でもなく、ユダヤ人だった。

そういえば、マケドニア風サラダも、さいの目切りの野菜や豆を和えたサラダである。

オスマン・トルコはイスラム教であったが、他の宗教にはとても寛容で、みんなが共生していたのだった(ただしイスラム教以外の人は2級市民の扱いだったが)。言葉の違いは存在したが、今のような先鋭な民族意識はなかったのだ。

マケドニアはギリシャか

次に筆者は、声を大にしてギリシャに聞きたい。

確かに、マケドニア王国はギリシャの一員であったとはいえる。なぜならオリンポスの神々、ギリシャの宗教を信仰していたからだ。

しかし紀元前4世紀、アレクサンダー大王が誕生したころ、当時の代表的なギリシャの都市国家(アテネ・スパルタなど)は、実際には決してマケドニアをギリシャの一員とは認めようとはしなかったではないか。マケドニアは、ど田舎の二流国家の扱いだったはずだ。

アレクサンダー大王は、教師である同じくマケドニア人のアリストテレスの影響をうけて、世界をギリシャ化=文明化する夢をもっていた。

でも、アリストテレスは「野蛮人どもにギリシャ文明を与えてあげるのだ」という方法をといたのに対し、アレクサンダーは、文明の融合という方法をとろうとしたのだ。

実際にアレクサンダー大王は、ペルシア帝国を滅ぼしたあと、両者の平和的な融合をはかろうとして、集団結婚を決行し、自分もペルシアの王女を妻にしたりした。

さんざん自分の国が「野蛮な後進国のぶんざい」扱いされると、アレクサンダー大王のようにそれを乗り越えようとする人もいれば、アリストテレスのように憧れの先進国の崇拝者になり、その先進国の保守派の人より一層保守になる人もいる。これは現在でも同じ現象がある。

若き王と、著名な哲学者は、対立したという。

アレクサンダー大王が亡くなると、「下等な二流国ふぜい」に恐怖と屈辱を味わわされたアテネ人の復讐によって、アリストテレスはアテネを追放されてしまった。

アリストテレスもまた、出自によってふりまわされた人であった。これも現代でも起こっている悲劇である。やっぱり人間は、出自出自とあまりにもこだわりすぎると、どこか狂ってくるようだ。

それなのに、いつのまにか「古代マケドニアとアレクサンダー大王はギリシャの誇り」・・・。今のギリシャ人は、過去をどう思っているのだろうか。

国だの民族だのというのは、結構ご都合主義だな・・・と思う。

日本が勝利したからこうなった?

問題が起きはじめたのは、ヨーロッパ列強のせいだった。

帝国主義の時代になり、ハプスブルク家のオーストリア帝国(のちにオーストリア=ハンガリー帝国)、ロシア帝国などがバルカン半島に介入しはじめた。このころオスマン帝国は衰退期に入っており、問題が噴出している時期でもあった。

ヨーロッパ列強の近代国家は、「国民国家」、つまり一つの国に一つの民族という概念をもっていた。この思想を形成する「民族」という名の毒を注ぎこまれてきたために、民族自決の嵐が吹き荒れるようになった。

民族という名の毒??ーーこの言葉に反論する人もいるかもしれない。でも、そうなのだ。この考えのために自分と違う人を敵視して、殺し合うようになったのだから。

しかし、マケドニアの地は最後までオスマントルコ領に残っていた。この地で次第に醸成されて出来てきたマケドニア語を話す人達はいても、自決するマケドニア「民族」がなかったからだ。

ヨーロッパの列強がアフリカに進出し、ハプスブルク家の帝国はバルカン半島に触手を伸ばしたが、ロシアが極東方面で南下していた時は、それほど鮮烈な争いは起きていなかった。

ロシアが日露戦争に負けて、再びバルカン方面に目を向けてから状況は激しくなった。マケドニアは、争いの舞台になってしまったのだ。マケドニアの歴史に、明らかに日本は影響を与えている。

まず国、次に民族

こうしてバルカン半島で戦争が起き、マケドニアの地は、ギリシャに51パーセント、セルビアに39パーセント、ブルガリアに10パーセントと、分割されてしまった。

1929年には、カリスマ的な指導者・チトー大統領が、この一帯に社会主義のユーゴスラビア連邦を形成した。第2次大戦が終わると、連邦内に6つの共和国をつくった。セルビアがもっていた39パーセントのマケドニアを、「マケドニア共和国」にした。つまり、昔よりも61パーセント分、小さくなったマケドニアだった。

現在につながる明らかな「マケドニア人」意識が全体にうまれ始めたのは、このころからだった。この場合、民族意識というよりは、国民意識といったほうが近いかもしれない。それからまだ100年もたっていない。

だからこそ、ギリシャの猛烈な抗議に対して、戦争も辞さないほど対立するのではなく、国旗の模様も、国の名前も、妥協をして変えることができたのではないだろうか。

世界は、まず民族ありきで、国が出来上がると思っている人が多いかもしれない。でも、現在のマケドニアはむしろ逆である。世界には国をもちたくてももてない人たちがたくさんいる中で、ある意味では幸運なのかもしれない。

離れ小島ギリシャの恐怖

ギリシャの側にも言い分はある。

冷戦時代の地図を見ると、離れてぽっかり、ギリシャだけが西側の陣営に入っている。周りはみんな東側陣営だ。

それは、西側の民主主義国家にとって、自分たちの歴史の教科書のいちばん最初にでてくるギリシャが「アカ」(共産主義)になってしまっては困るからだった。だから、欧米は、ギリシャだけは赤化から守ろうとしたのだ。

1946年にギリシャで内戦が起きると、チトーはギリシャ国内の共産主義者を支援して、テッサロニキが州都になっているギリシャ北部の州を併合しようとした。

チトーは、ユーゴスラヴィアを大国にしようとしていた。ソ連型の連邦をマネして、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、アルバニア、そして共産化したギリシャを一つの連邦にまとめようとしていた。

スターリンはチトーのこの野心に激怒し、1948年、ユーゴスラビアを共産主義の連帯であるコミンフォルムから追放した。そのせいで、チトーのギリシャに対する野心はとん挫した。

でも、西側陣営の離れ小島のようなギリシャは、常に頭の上に恐怖を持ち続けていた。

ギリシャの猛抗議、スタート

冷戦が崩壊して、1991年マケドニアは「マケドニア共和国」として独立を果たした。

このときから、ギリシャの猛抗議が始まった。

独立したマケドニア共和国が、「侵略する意図があるのではないか」と疑っている。成功はしなかったものの、チトー大統領のユーゴスラビアの前例があるだけに、無理もない。これはマケドニア共和国よりも、背後にある大きな力を恐れているのだろう。

ギリシャの主張が勝ったので、EU(欧州連合)では「マケドニア共和国」という名前は公認されていなかった。「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」を使っていた。

ギリシャの言い分が通ったのは、西側陣営にあり、冷戦の勝利側だったからだろう。

でも、アメリカは、「マケドニア共和国」の名前を承認している。これは、アメリカがニューヨークのテロ事件後に行ったイラク戦争を、マケドニアが支持したからである。他にも、ロシアや中国もこの名前を承認していた。

EUが加盟に向けて方針転換

いま、このように妥協が進み始めたのは、欧州連合が、旧ユーゴスラビアの国々を加盟させようとしているからである。

ジャン=クロード・ユンケル委員長が2014年、欧州委員会の委員長に就任したときは「任期中に加盟国を増やすつもりはない」と言っていたのだが。

2017年から方針が変わった。ロシアや中国の影響力が増してきたので、安全保障上必要ということである。渋々な感じだった。EUは問題があまりにも多すぎて、拡大している場合ではないという気持ちだったのだろう。

今年の2月には、外務担当のモゲリーニ上級代表が、ストラスブールの欧州議会で、この地帯への戦略を発表。5月には、ブルガリアの首都ソフィアで、西バルカンの6カ国と首脳会議を開いた。15年ぶりという。

セルビアとモンテネグロでは既に加盟交渉が始まっていて、2025年が一つのめどになっている。マケドニアとアルバニアは加盟国候補と認識され、コソボとボスニア=ヘルツェゴビナは潜在的な候補ということである。

中国はここで何をしている?

しかし、ロシアはわかるとして、中国はここで何をしているのだろうか。

以下、産経ニュースの引用である。

「EUとロシアのせめぎ合いに中国も割って入ってきた。中国にとってバルカン地域は一帯一路の「欧州側の玄関口」であり、ギリシャの主要港を抑えた今、セルビアの首都ベオグラードとハンガリーの首都ブダペストを結ぶ高速鉄道整備を目指している」

「中国は鉄道以外にもセルビアやボスニアのセルビア人共和国、モンテネグロなどで製鋼所を買収したり、発電所や道路の整備などに協力したりして接近。セルビア人共和国では地元当局が最近、学校での中国語の授業の導入を表明したとも伝えられている」

ロシアについては、以下のように説明されている。

「『他の大国が影響力を確保しようとしている』(ジェンティローニ伊首相)との事情がさらにEUを突き上げた」

 「『他の大国』として最も動きが活発なのはロシア。現地報道によると、もともと関係の近いセルビアで石油企業を買収し、武器取引なども通じて関係の強化を図っている。3民族の微妙な均衡で成り立つボスニア・ヘルツェゴビナでも、構成地域のセルビア人共和国への支援を強化する」

「EUに大きな警鐘となったのはモンテネグロでの動きとされる。昨秋の議会選では親欧米派が勝利し、同国の北大西洋条約機構(NATO)加盟も実現した。だが、議会選当時にクーデター計画が摘発され、ロシアが関与した疑惑が浮上。EUが内向きになるなか、「ロシアが空白につけ込もうとした」(独メディア)と警戒が高まった」

この争いに「中露だけでなく、オスマン帝国時代にバルカンを支配したトルコも、イスラム教徒が暮らすボスニアやコソボでモスク(イスラム教礼拝所)の改修を支援するなど存在感を高めている」というのだ。

ギリシャにしてみれば、冷戦に勝利して喜んだのも束の間、今までの保護と秩序が崩れる、新たな恐怖の時代がやってきたのだろう。

でも、まさか中国までやってくるとは想像していなかったに違いない。

現実はどうだろうか

今回の合意では、北マケドニア共和国国民が古代ギリシャ文明といかなる関係もないこと、彼らの言語が古代ギリシャ文化とは無関係のスラブ語族に属していることが明記されたという。

そうはいうが、国境線の向こうとこちらで、混ざることなく100パーセント全く異なる人々が住んでいるなんてことは、よほどの天然の境界があるならいざしらず、まずありえない。確かにバルカン半島は山岳地帯でちょっと特殊だけど、日本みたいに極東の島国じゃないのだから。

知り合いのギリシャ系の人は、「古代ギリシャをほめてくれるのは嬉しいけど、かいかぶりすぎ。あの時代のギリシャ人と今のギリシャ人は、同じのはずがない。ギリシャは、長いことオスマン・トルコの支配下にいたし、いろいろな民族が混ざっているよ」と、あっさりとしたものだった。

それでもやっぱり、ギリシャ人の言うことが国際的に通ってしまうのは、西側が冷戦に勝っただけではない。古代ギリシャの栄光のおかげなのだ。もっとも、「教科書の歴史の最初のページに出てきて、あとは姿を消してしまう国」と自嘲する話を聞いたことがある。ぜいたくな嘆きだが・・・。

民族という意識は、言語だったり、歴史だったり(特に過去の栄光)、色々なファクターがある。日本はやたら「血」と言いたがるが、それを聞くたびに「極東の島国だなあ」と思う。欧州大陸の人が聞いたら、ぎくっとするだろう。

偉大な大王の誕生から2374年後の今

そもそもこんな問題が起こるのは、アレクサンダー大王の伝説が、あまりにも偉大だからだと思う。

彼さえいなければ「大昔マケドニアなんていう国があったの? 知らなかった」だったろうし、そうすればマケドニアという名前は、世界に数万?数億?とある土地の名前の一つにすぎなかったかもしれないのに。

24世紀前のこの輝かしき栄光のために、今現在に至るまで問題が起きているのだった。

32歳の若さで亡くなった王が夢見たのは、征服して圧政を敷くのではなく、文化を融合する大帝国だった。だからこそ人々はこの王に惹かれ、語り継がれる伝説となったのだ。それなのに、末裔たちは「私のものだ!」「いや、私のだ!」といって争っている。

アメリカが世界一の大国なのは、民族という名の「毒」を克服する自由思想と政治体制をもったからだ。ソ連だってそうだ。共産主義は、民族の差別なく共存しようとする平等思想だったのだ(実際は矛盾だらけだったので崩壊したが)。だからこそ当時、この二つは世界の二大勢力だったのだ。

西欧の国々については「バルカン半島が争いの場になったのは、もともとアナタたちのせいだから。責任取ってよね」という気持ちはあるものの、EUという大きな枠組みで包むことによって、この争いに終止符を打って平和が訪れるなら、素晴らしいことだとは思う。

結局人間は、アレクサンダー大王が生きた24世紀も昔から、異なる者同士が、いかにお互い得なように共生するかを探っているのかもしれない。

欧州/EU・国際関係の研究者、ジャーナリスト、編集者

フランス・パリ在住。追求するテーマは異文明の出会い、平等と自由。EU、国際社会や地政学、文化、各国社会等をテーマに執筆。ソルボンヌ(Paris 3)大学院国際関係・欧州研究学院修士号取得。駐日EU代表部公式ウェブマガジン「EU MAG」執筆。元大使のインタビュー記事も担当(〜18年)。編著「ニッポンの評判 世界17カ国レポート」新潮社、欧州の章編著「世界で広がる脱原発」宝島社、他。Association de Presse France-Japon会員。仏の某省機関の仕事を行う(2015年〜)。出版社の編集者出身。 早稲田大学卒。ご連絡 saorit2010あっとhotmail.fr

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