桂ざこば 師匠は文化勲章受章の文化人落語家 一門の「やんちゃ」を受け持つ原点は「動物」ネタ
「動物いじめ」で初めて知る
桂ざこばがまだ桂朝丸だったころ、彼を知ったのはラジオから流れてきた「動物いじめ」であった。
考えるとすでにタイトルからしてかなり問題がある。
いまだと大問題だろう。
でもラジオでは何度かこのネタを聞いた。
レコードも売られていた。
昭和四十八年に聞いていた「動物いじめ」
私は昭和四十八年(1973)に高校に入って落語研究会に入部して、すぐに発表会でこの「動物いじめ」をマクラに使った記憶がある。喋ると受けた。
私にとって朝丸(ざこば)の出現はこの昭和四十七年の「動物いじめ」である。
(昭和四十七年はあくまで私が聞いた年で、少し前から話していたはずだ)
昭和四十年代の上方落語ブーム
当時の上方では、落語がちょっとしたブームであった。
牽引したのは笑福亭仁鶴である。
ラジオで大人気となり、テレビにも進出して、テレビコマーシャルにも出ていた。若者に支持された圧倒的な人気タレントであった。
それに続いたのが桂三枝(いまの文枝)である。
仁鶴よりもさらに軽妙な喋りで人気を博した。
二人は、テレビタレントとしてだけではなく、きちんと落語も語って人気だった。
「仁鶴はテレビ出てるだけと違うて、ちゃんと落語もやっていて偉いねんで」と同級生が熱心に力説してくれていた。
仁鶴だと「初天神」、三枝は「幽霊アパート」「大安売り」が大好きで、聞きすぎて、完全に覚えてしまっていた。
小染、きん枝、八方、文珍、春蝶、小米
そのあと「林家小染・桂きん枝・月亭八方・桂文珍」の4人組が人気となり、それに続いていたのが桂春蝶(二代目)である。
さらにそのあとに桂小米(のちの枝雀)が続いていきそうなところだったが、昭和四十八年の春に小米はうつ(当時の言葉ではノイローゼ)になりしばらく休んでいた。
その三月に京都での「春蝶・小米二人会」に行ったら、小米は休演で、なんと、師匠の米朝が代演で出てきたので驚いたことがあった。
カメレオンをカラーテレビの上に置くんですな
ちょうどそのころに「動物いじめ」を聞いて、朝丸っておもろい、とおもったのだ。
「動物いじめ」は何度か真似て演じたが、うろ覚えである。
カメレオンの部分は覚えている。
「いろいろと動物をいじめるんですな。カメレオンをいじめますな」
カメレオンをカラーテレビの画面に置くとカメレオンは何色に変わってええかわからないんで困る、という、わりとやくたいのない内容で、タイトルから受ける強烈な印象とは少し違う。
ただ、すでに昭和の時代から抗議されていたはずである。
若手の時代だけのネタだった、という印象である。でもインパクトが強烈。
「米朝をいじめますな」
動物いじめのネタでは、もうひとつ「米朝をいじめますな」というのも覚えている。
これはレコードの最後のところに録音されているものだった。
米朝は、朝丸(ざこば)の師匠であった桂米朝である。のちの人間国宝、文化勲章までもらった上方落語史上に残る巨人落語家である。
米朝いじめは、米朝は自分の名を誰かに継がせたいとおもって、弟子に打診するが断ら続けるれるという内容であった。米紫、可朝(月亭可朝)に断られ、ついで小米(枝雀)のも断られ、そして朝丸のところにきますな、もちろん断りますな、米朝困りますな、という展開であった。
そこで舞台袖から師匠の米朝が出てきて「ええ加減にせえよ」と怒っている声が入っておしまいという展開だったとおもう。1970年代の香りしかしない。
桂ざこばはいつも「米朝一門のやんちゃな役割」を引き受けているところがあった。
「クワ烏でもやりなはれ」
書いていてふとおもいだしたのは、桂米朝の晩年の高座だ。
晩年といっても2008年ころ、たしか名古屋の中日劇場で見た一門会だったとおもうが、米朝の噺がループしはじめた。
落語家の噺がループしはじめて前に進まなくなるというシーンは長年落語を見ていると何度か見かけることになる。
米朝の高座は四方山話(つまり雑談)だったとおもうが、あれはあれできちんと落語で、話がもとに戻って、また同じ話を繰り返す。誰かが止めないと終わらない。
中日劇場の一門会では、弟子のトップであった桂ざこばが袖からどかどかと舞台に上がってきて(どかどか、というのは印象である)米朝を止める。上がってこんでもええのにという師匠に、遠慮なくいろいろ言って、そのあと「ほれ、あの、カラスがクワー、いうやつ、あれでもやりなはれ」と言い放って舞台袖にはけていった。まさに「言い放って」という感じそのもので、「やんちゃな弟子」ざこばらしい姿であった。
不承不承という感じで米朝は、でも弟子に言われたとおりに「クワ烏」と呼ばれる小噺を話して、高座をおりていった。
もう15年以上昔のことである。
喋り方はあらけないかもしらんが、でもやさしそうな人やなあ、というのは年をとるとわかってくる。
少しの乱暴さが味わい
桂朝丸はある意味「やたけた」な落語家だったような印象を持たれていた。
でも、「やたけた」な落語家であった印象の六代目笑福亭松鶴には入門せず、かなり四角い芸風の桂米朝に入門したところが彼の妙味である。
実際はあまり「やたけた」ではなかった。
若いころから、かなり真面目に落語に取り組んでいた印象が強い。米朝の弟子らしい、筋目のいいスクエアな落語を演じていたようにおもう。兄弟子の枝雀の影響も強かったのだろう。
そこに少し乱暴さが入っていて、いい味わいになっていた。
1977年当時に聞いた桂ざこばの演目
昭和五十二年(1977)に私が自分で保持している落語の音源について詳細に記録したノートがある。
ラジオやレコード、ときにテレビで落語が演じられると、カセットテープにとにかく全部録音していったものである。毎日可能な限り録音しつづけていた。誰の、何のネタがどのカセットに入っているか、ノートにびっちりと書き込んである。
いま見ても自分でちょっと驚く。
そこにあった私が録音している桂朝丸のネタを抜き出してみる。五十音順。
阿弥陀池・犬の目・池田の猪買い・うなぎ屋・延陽伯・首提灯・子ほめ・崇徳院・つぼ算・天神山・動物いじめ・みかん屋
だいたい昭和四十七年から五十二年(1972から1977)くらいに録音したものである。
いかにも米朝一門だなあ、とおもう。
(これはあくまで私が個人的に録音できた一覧である。彼の当時の持ちネタはおそらくもっともっと多かったはずだ)。
このなかでいまでも強烈に覚えているのは、動物いじめは別として、「首提灯」である。
あとは「阿弥陀池」「うなぎ屋」「つぼ算」「みかん屋」。
これらのネタには当時の朝丸らしさが溌剌としていて、とても魅力的だった。
「丁稚に行け」
この、ノートにびっしり書き込んでいた時代、高校を卒業したが大学に入れず、浪人の時代で、よほど暇だったんだなとノートを見ておもう。そのためさらに落ち続けて、あきれた親に、「もう、丁稚に行け」と本気で怒られた。丁稚に行けはつまり働けという意味で、最初から「修行にいけ」という意味を含ませるのが関西の家の言い方であった。
朝丸に弟子入りしたらどうやろ
しばし考えてどうしても働かなければならぬのなら、落語家になろうとおもって、では誰に弟子入りすればいいだろうと高校の落研の同期に相談した。
当時、人気だった桂枝雀がいいんではないかと話が出たが、あそこはいま新しい弟子が次々と入って混んでそうだからなあと躊躇する。
じゃあ、朝丸はどうだろう、あそこはまだ弟子がいないんじゃないかと私が提案したら、同期はしばし考えて「けっこう、どつかれそうやで」と言う(あくまで当時の友人の個人的な想像です)。
たしかにそうかもとおもって、私は朝丸の弟子になる考えは捨てたのであった。
勝手にいろいろ申し訳ありません。
大変そうなポジションながら
師匠が桂米朝で、兄弟子に桂枝雀というのは、なかなか大変そうなポジションであるのだけれど、桂ざこばは気にせずずっとざこばであった。
熱く、元気に、だからこそ飄々と生きていたという印象がある。