【登山の歴史】明治期、登山の黎明を迎えて!学びと挑戦の山々へ
登山と聞いて、現代の私たちはアウトドア用品店に並ぶ色とりどりのギアを思い浮かべますが、明治時代、山々を訪れるのは少々様相が異なりました。
そのはじまりは、なんと学校教育と深く結びついていたのです。
たとえば、渡辺敏という人物。
彼は長野高等女学校の校長を務めていた1902年より、戸隠山や白馬岳、さらには富士山といった名山への学校登山を実施しました。
教育の名のもとに山を踏みしめる、実に進取の気性に富んだ試みではありませんか。
同様に、富山師範学校の教諭だった保田広太郎や、大町小学校校長の河野齢蔵らも、教育と自然科学の融合を目指して、学生たちを北アルプスへ連れて行ったのです。
やがて、山には三角点が設置され、地図作成という科学的基盤も整えられました。
そして1910年代に入ると登山は徐々に大衆化し、上高地に広がる大正池の登場や皇族の登山がその潮流を後押しします。
しかし、ここで少し興味深い点に触れなければなりません。
当時の登山文化は、英国の上流階級の影響を強く受けており、大学や高校の山岳部はその象徴でした。
経済的な余裕を持つ学生たちが、探検や挑戦を楽しむ文化が根づいていたのです。
その中で、案内人を雇わず単独行を行った加藤文太郎のような異端児が登場し、物議を醸したのもまた一興。
登山が広がる一方で、遭難という悲劇も増加しました。
明治期の記録によれば、青山学院の学生が木曽駒ヶ岳で命を落とした事故が最古の事例とされています。
また、大正時代には八甲田雪中行軍遭難のような大規模な犠牲も生じました。
こうした背景の中、1907年には白馬岳山頂近くに山小屋が設置され、登山者たちの安全と利便を支えるインフラが少しずつ整備されていきます。
山岳ガイドの組織化も進み、百瀬慎太郎や赤沼千尋らがルールを定めたことで、登山はより体系的なものとなりました。
やがて、槇有恒によるアルピニズムの実践が1920年代後半に登場し、日本登山界は新たな局面を迎えます。
そして戦後、大学山岳部の活動が再開され、1950年代にはヒマラヤへの遠征や、社会人山岳会による挑戦が活発化しました。
人々が山に魅了され続ける背景には、ただ登るだけでなく、自然と向き合い、自らの限界を試す「探求」の精神があったに違いありません。
時代が進むにつれ、登山はより多様化し、社会人も一般市民も、ハイキングから縦走まで楽しむ文化へと発展しました。
一方で、遭難防止条例やガイド協会の設立といった制度面の整備も進行し、安全と冒険の両立が図られています。
こうして振り返ると、明治の黎明期から続く登山の歴史は、挑戦の物語であり、また人々が自然と歩んだ軌跡そのものだと言えるでしょう。
さて、皆さまも山々を訪れてみてはいかがでしょうか。
そこには、明治の学徒たちが見たものと同じ、雄大で厳しく、そして美しい景色が広がっていることでしょう。