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順調な行軍から一転して遭難、八甲田山雪中行軍遭難

華盛頓Webライター
credit:pixabay

冬の山は夏の山と比べて危険であり、遭難して命を落とす人も非常に多いです。

そのような中でも群を抜いて甚大な被害を出したのは、明治時代に青森県で起こった八甲田山雪中行軍遭難事故です。

今回は近代登山史上最悪の事故、八甲田山雪中行軍遭難事故について紹介していきます。

天候の悪化で暗雲が立ち込めた行軍初日

この時期の日本はロシアとの関係も悪化しており、ロシアとの戦いに備えるために訓練を行うことは喫緊の課題でした。

青森歩兵第5連隊は、ロシア軍の侵攻によって青森の海岸沿いを走っていた列車が使えなくなった時に山岳沿いのルートを通ることによって物資を運搬することが現実的に可能かどうかを確かめるために、青森から田代温泉の間の20キロを1泊2日で雪中行軍する訓練を行いました。

こうして1902年1月23日、厳冬の八甲田山で歩兵第5連隊が運命の行軍を開始しました。彼らは地元村民からの行軍中止の忠告や案内役の申し出を受けたものの、それを断って地図と方位磁針だけで進軍することを決断します。

午前中は順調でしたが、天候が急変し暴風雪に見舞われたのです。

上層部は進退を協議するも、兵士たちの反対で進軍続行を決定します。

そうした中で深雪に苦しみながらも行軍を進め、ソリ隊の遅れを補うための応援隊や先遣隊が派遣されました。

しかし猛吹雪と日没で進路を見失い、午後8時過ぎに露営地を設けたのです

雪壕での過酷な環境と限られた食料・燃料の中、炊事すらままならない困難が続きました。

この初日の試練が、悲劇的な結末への序章となったのです。

700mしか進めなかった2日目

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1月24日未明、極寒の八甲田山で露営する歩兵第5連隊は、零下20度以下の気温に苦しみながら生煮えの食事をとり、わずかな仮眠を取りました。

しかし、凍傷の危険が高まったことにより、隊は行軍を中止して早朝に帰営することを決定します。

午前2時半、隊は露営地を出発しましたが、峡谷に迷い込み、隊列は崩れ、混乱が広がります。

進路を知っているという佐藤特務曹長の進言に従ったものの、誤った道を進んでしまい、駒込川の本流に迷い込む結果となりました。

疲労困憊した兵士たちは、暴風雪にさらされながら崖をよじ登ることを余儀なくされました。

しかし次々と落伍者が出始め、士気は急速に低下していったのです

中には、崖を登れずに命を落とす者も現れたのです。

さらに第4小隊の水野忠宜中尉が凍死したことで、兵士たちの心はさらに沈んでいきます。

隊は再び高地に登るも、猛烈な暴風雪に阻まれ、前進は困難を極めました。

わずか700メートル進むのに14時間半もかかり、最終的に窪地で第2の露営地を設けます。

しかし、道具を持つ兵士たちはすでに行方不明となり、雪壕を掘ることもできず、露天での過酷な夜を迎えました。

食糧は凍結し、兵士たちは飢えと極寒に耐えながら、眠ることもできず、多くが凍死していったのです。

この第2露営地は、八甲田山での行軍中、最も多くの死者を出した場所となりました。

一方、青森の駐屯地では、帰営予定時刻を過ぎても戻らない行軍隊を心配し、少数の兵士が迎えに向かいましたが、消息をつかむことができませんでした。

この間も青森では別の部隊へ移動する将校の送別会が開かれ、行軍隊の無事を祈る一方で、事態の深刻さをまだ認識していなかった様子がうかがえます。

統率が崩壊して潰走した3日目

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1月25日、凍える八甲田山での生存を懸けた行軍が続いていました。

夜明けを待たずに出発したのは、既に凍死者が続出し、命の危険が目前に迫っていたためです。

午前3時、隊は再び進み始めましたが、この時点で既に70名以上が死亡または行方不明、ほとんどの兵士が凍傷にかかっていました。

方位磁針は凍りつき、行軍は地図と勘だけに頼るしかなかったのです。

隊は一旦集落の近くまで辿り着きましたが、断崖に阻まれ、引き返すことを余儀なくされました。

大隊本部の将校たちは協議の末、「部隊を解散し、各自で進路を見つけ青森または田代を目指すように」と命じたとされています。

この決定により、兵士たちの士気は崩壊し、錯乱状態に陥る者が続出しました。

崖を降りれば青森に戻れると信じて飛び降りる者や、樹に向かって銃剣を振り回す者、そして凍傷で手が動かず放尿さえできずに凍死する者など、状況は絶望的でした。

午前7時頃、天候がやや回復したため、部隊は田茂木野と田代方面にそれぞれ斥候隊を送り出しました。

正午頃、斥候隊が帰路を発見し、隊は田茂木野方面へ進み始めましたが、既に生存者は60名から14名にまで減っていたのです。

日暮れと共に部隊は第3の露営地を設けましたが、そこに集まれる者は少なかったです。

一方青森では、天候の回復を期待して迎えの準備が進められていましたが、夜半になっても行軍隊は戻らず、行方不明のままになりました。

翌日、救援隊を派遣することが決定されましたが、惨事の全貌が明らかになるのはまだ先のことだったのです。

Webライター

華盛頓です。以前の大学では経済史と経済学史を学んでおり、現在は別の大学で考古学と西洋史を学んでいます。面白くてわかりやすい記事を執筆していきます。

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