近世ヨーロッパの怪人、サン・ジェルマン伯爵
サン・ジェルマン伯爵――宝石に彩られ、数千年の知識と不死の噂に包まれた、ヨーロッパ史上最も謎めいた人物です。
数々の言語や音楽、錬金術に通じ、時代を超えてさまざまな場所に現れたという彼の足跡は、ついに真相を明かすことなく歴史に消えました。
サン・ジェルマン伯爵の軌跡
それはまるで歴史の影に忍び込む狐火のような人生でした。
サン・ジェルマン伯爵。
かつてスペイン王妃マリー=アンヌ・ド・ヌブールとある貴族の間に生まれたと言われ、私生児ゆえにその存在は秘密の霧に包まれていたのです。
しかし、彼の教養や財産が際立って豊かであったことから、その出自の謎を語る噂は尽きませんでした。
絵筆を振るい音楽を奏で、化学にも錬金術にも精通したという、どこか常識の枠をはみ出す才覚の持ち主だったとのこと。
もっとも、世に姿を現すのは彼が67歳と称された頃であったものの、どうも若々しく40代にしか見えなかったらしいです。
彼の年齢すら、誰にも定かではなかったのです。
1746年、彼は作曲家とヴァイオリニストとしてロンドンに身を置き、その後の消息はしばし途絶えます。
誰も彼がどこで何をしていたのか知らず、ひっそりと姿を隠したかと思えば、異国の地をさすらっていたという噂も飛び交いました。
彼が再び姿を見せるのは1758年のパリで、王の営繕官であるマリニー侯爵に宛てた一通の手紙が契機となります。
そこで彼は、ある「人類史上稀なる発見」をもたらすと約束し、王族の所有する城館の使用許可を求めたのです。
マリニーはシャンボール城を貸し与え、伯爵はそこで助手や使用人を従えて研究室を構えました。
しかし、その城に長居することは少なく、もっぱらパリに出向き、ポンパドゥール夫人や王ルイ15世との親交を深めていったのです。
だが、彼の不思議な魅力に引き寄せられる者ばかりではありませんでした。
宮廷の重臣であるショワズール公爵は、伯爵の影響力を快く思わず、策を巡らせます。
彼は道化師を雇い、「アレクサンダー大王と杯を交わした」とか「イエス・キリストから末期の予言を聞いた」といった荒唐無稽な話をさせ、伯爵を笑いものにしようとしたのです。
しかしその策略も露見し、かえってサン・ジェルマン伯爵の「正体不明さ」を一層際立たせてしまうこととなります。
ついには、ショワズール公爵は1760年に伯爵をスパイ容疑で告発するという手段に出ました。
伯爵はフランスを追われ、彼の旅路は再びヨーロッパ中を漂うことになったのです。
イギリス、イタリア、ロシア、プロイセン。
彼はどの地でも顔料や色彩に関する自らの知識を披露し、その風変わりな研究はますます異彩を放っていました。
1784年、彼はヘッセンの領主の庇護のもと、ついに93歳でその生涯を閉じたと伝えられます。
しかし、それが彼の最期だったかどうか、真相は誰も知りません。
まるで夜の霧の中に消えたように、伯爵の物語もまた、歴史の闇へと溶け込んでいったのです。
サン・ジェルマン伯爵の不老不死伝説
サン・ジェルマン伯爵の名を聞けば、胸がざわめきます。
どこか異国の風が吹き込むかのような、あの神秘の伯爵です。
まるで影のように現れては去り、その生涯は謎の霧に包まれているのです。
伯爵は豪奢な衣装に身を包み、いつも宝石を散りばめ、パンと丸薬しか口にしなかったといいます。
彼が話す言葉はフランス語、ギリシア語、サンスクリット語に中国語と、数えきれないほど。
クラヴサンとヴァイオリンの名手であり、音楽も化学も錬金術も自在に操ったというのだから、どれだけの知識を秘めていたことでしょうか。
人々は囁いた。「あれほど多くを知る者は不死に違いない」と。
さらには、伯爵が実は二千年、いや四千年もの命を持つ存在であると噂されていました。
彼が語る古代の出来事、バビロンの宮廷やカナの婚礼は、まるでその場に居合わせたかのような臨場感だったといいます。
哲学者ヴォルテールも「死なないし、すべてを知っている」と評し、フリードリヒ2世までが彼を「死ぬことのできない人間」と呼びました。
使用人に彼の年齢を尋ねると、「私はまだ300年しか仕えておりませんので」と答えたというから、人々はますます不気味さに震えたのです。
彼が催眠術で自らの姿を幻のように隠したのだ、という噂もあります。
そのため、どこでも目撃され、時には消え去るようにして去っていったとのこと。
あのラモーやセルジ伯爵夫人も「数十年が経っても彼は変わらない」と語りました。
こうして数多の伝説が生まれ、ナポレオン三世でさえサン・ジェルマンに魅せられて、彼に関する文書を集めるよう命じたといいます。
しかし、奇しくもその記録はテュイルリー宮殿の火災で消え去り、彼の正体はついに煙のように消え失せたのでした。
参考文献
森貴史・細川裕史・溝井裕一(2014)『ドイツ奇人街道』「サン・ジェルマン伯爵」関西大学出版部