【遍路の歴史】遍路の道に寄せる思い!修行と信仰、そして観光の間で
四国遍路とは、ただ信仰の道として始まったものではありません。
その背景には、修行僧や信仰者だけでなく、病に苦しみ、あるいは社会から逃げ場を求めた人々の歩みも刻まれています。
彼らの中には、故郷を離れ、四国の巡礼を「終生の職」とした者たちもいました。
その旅路にこそ、救済を求め、贖罪を願う切実な祈りが込められていたのです。
また、遍路には「治癒」を祈る側面もありました。
現代でいう障害を抱える人々が、信仰に一縷の望みをかけて巡礼に参加した記録も残っています。
一方で、四国遍路は単なる宗教的義務ではなく、自ら決意して行う個人の選択でした。
病や死への畏れ、懺悔、供養――遍路が担うイメージは、他の巡礼地にはないほどに深く重いものであったのです。
明治時代初期、神仏分離令や廃仏毀釈運動の影響で、四国八十八箇所霊場も大きな変化を余儀なくされました。
一部の寺が廃寺になり、札所が移されたり新たに設置されたりと、霊場の構造そのものが揺るがされたのです。
また、明治政府の上知令による寺領の没収は、多くの札所に経済的困難をもたらしました。
その中でも、寺院は少しずつ復興を遂げ、百年以上の時を経て現在の形に至っています。
近代に入ると、遍路は新たな姿を見せ始めます。
四国遍路は「死に装束」とともに歩く厳かな旅から、観光的な要素を含むものへと変わっていきました。
1908年、『大阪毎日新聞』による巡礼競争の企画は、遍路を全国的な話題へと引き上げます。
1930年代には、旅館に宿泊し乗り物を利用する「モダン遍路」が登場。
信仰の道は、新たな観光の舞台となったのです。
参考文献
武田和昭(2016)『四国へんろの歴史』美巧社