ウクライナ 唯一出場のW杯で見せた「超絶キック」 「親ロシア国系」とも共闘したドイツW杯
ウクライナ。
そう聞かれればサッカーファンはなんと答えるか。
アンドリー・シェフチェンコ。
そうではないか。76年9月29日生まれのアタッカーは、1990-00シーズンにACミランに移籍すると、いきなり32試合で24ゴールで得点王を獲得。そのインパクトを含め、7年間で296試合に出場して173得点を記録した。
より古くを知るファンは、ソ連時代の英雄オレグ・ブロヒンの名を口にするか。あるいは、彼が活躍したディナモ・キエフも印象深い。旧ソ連リーグ優勝13回。内訳は60年代、70年代、80年代にそれぞれ4回、そして1990年だから、各年代の”半分近く”で頂点に立っていたことになる。ソ連時代の”最後の輝き”となった1988年の欧州選手権準優勝メンバーにはエントリーメンバー20人のうち11人を輩出している。
今回の話の主人公はそれらではない。
アルテム・ミレフスキー。
同国唯一のW杯出場となった2006年ドイツ大会のメンバー。85年生まれ、190センチの長身FWはキャリアのほぼすべてを東欧圏のクラブで過ごした、国際的には”無名”の選手。同国代表選手としてはこの大会のほか、自国開催(ポーランドと共催)の2012年欧州選手権にも出場している。
筆者自身、一度だけその国のサッカーに生で触れた機会があるが、その時にとんでもないプレーを披露した。
ドイツW杯ラウンド16 スイスーウクライナ
@ケルン、2006年6月27日。
なんでこんな渋いカードを現地で観たのかというと、当時ドイツのケルンに住んでいたからだ。「近所でやる試合、行っとこ」くらいのノリだった。どの国が出てくるかも考えず、予定だけを空けておいた。
じつのところウクライナは「最もつまらない国」とさえ思っていた。ヨーロッパ予選で前回大会3位のトルコを振り切っていたのだ。なにせドイツには多くのトルコ人が暮らしている。欠場は大会の盛り上がりに関わる話でもあった。筆者自身も日々の中でトルコ人にずいぶん親切にしてもらっていたから残念に思っていた。
”出来事”はPK戦で起きた
この日、1トップとして出場していたシェフチェンコは29歳で、2度めのACミランでの在籍期間にあった。
チームの方は、91年12月に旧ソ連から独立後、3度めのW杯挑戦で初めての出場権を獲得していた。それまで98年フランス大会予選ではクロアチアに、02年日韓大会予選ではドイツにプレーオフで敗れていた。
かくして挑んだドイツ大会ではグループリーグH組の初戦でイタリアに0-4で敗れ、教科書代を払った。その後、サウジアラビアに4-0、チェニジアに1-0と勝ち2位でスイスとのこの試合に臨むこととなった。
ケルンでの戦いは、120分間戦って0-0のドローだった。
当時イギリスのBBCは「W杯史上最悪の試合」とすら報じている。激しいだけで、技術に欠けると。現場で見ていた限りでは、W杯本大会の雰囲気もあり、それなりに湧いた記憶もあるが。
何はともあれ、最もインパクトのある出来事はPK戦の時に起きた。むしろいいモノを見たと思っている。
先攻:ウクライナ1人目。キッカーはシェフチェンコ。
これをなんと…相手GKにセーブされてしまう。大エースは左サイドを狙って蹴ったが相手の読みの前に敗れた。
後に映像を見ると、オレグ・ブロヒン監督がベンチ前でかなり悔しがってる様子が映っていた。そりゃそうだ。エースを最初のキッカーに指名したのは「確実に決めて、チームを落ち着かせてほしい」と願ったからに違いない。狙いは大外れだった。
後攻:スイス1人目。キッカーはマルコ・シュトレラー。195センチのFWは左足のキックを…GKにセーブされてしまう。彼はなんと、この年、シュトゥットガルトからのレンタルでケルンに所属していたのだった。
先攻:ウクライナ2人目。アルテム・ミレフスキー。
この日、延長戦に突入した111分にピッチに投入されていた。大会初戦では0分、第2戦では4分、第3戦では2分…この日の9分を足しても、出場時間は4試合で15分に過ぎない。
そんな21歳のサブFWに、1番手キッカーが失敗し、プレッシャーがかかる状況が降り掛かっていた。
190センチの大男、ゆっくりと助走に入る。
その後…スタンドが一瞬静まり返った。小さな弧を描いたボールが、コロコロとゴールに転がったのだ。
力んだスイスGKは右に飛び、これに触れない。
”パネンカ”だった。
直後にスタンドがドッと沸いた。
えっ? ここでそれする? そんなことを思ったものだ。W杯のベスト8入りがかかった重要なゲーム。何よりウクライナはW杯初出場国なのだ。そんな状況での余裕。
鳥肌が立った。そして笑いが出て、その後ちょっとした絶望すら感じた。ヨーロッパのレベル、半端ない。初出場の国が、それやる? 後に日本でもアジアカップやクラブW杯で遠藤保仁が「コロコロ」を決めるシーンを目にしたが、はたしてW杯本大会の決勝トーナメントでやれるだろうか。
後に資料を読み込んでいくと、彼は同年に行われたU-21欧州選手権でもグループリーグでオランダ相手にパネンカを決めていたのだという。レベルの高いコンペティションが多い、欧州の土壌の豊かさも感じさせるものだ。
このキックの成功で流れを引き寄せないわけはない。
その後スイスは2人がさらに失敗。ウクライナは全員が決め、3-0でPKに勝利。次戦で、大会で優勝するイタリアに0-3で敗れ大会を去ったものの初出場でベスト8入りを果たしたのだった。
アルテム・ミレフスキーは、本当に重要な場面で、「1本成功」以上の価値のあるキックを見せたのだった。
この「パネンカ」、元祖はチェコスロバキア代表だったアントニーン・パネンカ氏が1976年欧州選手権決勝の西ドイツ代表戦で見せたもの。PKの最後のキッカーとして登場し、フワリと浮くボールをゴールに転がし欧州制覇が決まった。あまりの衝撃に選手名がこの技術につけられたのだ。
後に2012年の欧州選手権でイタリアのアンドレア・ピルロが決めたものも有名だ。これも準々決勝のPK戦、前のキッカーが失敗した後という緊迫した状況でのものだった。この時、日本では「チップキック」とも表現された。
ミレフスキーが決めたステージはラウンド16ではあったが、「小さな国の無名選手」がこれを決めたことが大きな衝撃だった。
当時、ウクライナのレジェントたるオレグ・ブロヒンに見いだされ少ないながらも出場機会を与えられていた21歳は、後のキャリアでは負傷も相次ぎ、2021年9月に36歳で引退するまで東欧圏のクラブを転々した。
2022年、ウクライナでの有事のこの折に彼について調べるなかで、ある点を知った。
彼は元々、ウクライナの隣国で、親ロシアとして知られるベラルーシ人なのだ。生まれはミンスクで、キャリアのスタートもそこから。U-16の時代にはベラルーシ代表歴もある。2000年にウクライナに渡り、その後名門ディナモ・キエフで活躍を見せるなかで、ウクライナ国籍も獲得。晴れてW杯のメンバーにも選ばれていたのだった。
サッカーの世界で、同国史上最高の成績に”貢献”した男は、”親ロシア系”だった。そういった垣根なく、チームが躍進した実績もある地域の人たちなのに。愚かだ。そこを武力で相手を制圧しようとするなんて。