【その後の鎌倉殿の13人】北条泰時が制定した御成敗式目は聖徳太子の17条憲法と関係があった?
鎌倉幕府の第3代執権・北条泰時の時代に制定された初めての武家法「御成敗式目」。貞永元年(1232)に制定されたことから「貞永式目」とも呼ばれるこの法は、全部で51ヶ条あります。この「51」という数字ですが、聖徳太子が制定したとされる「17条憲法」(604年制定か)と関係があると言われています。17条憲法は勿論、全部で17条からなる成文法ですが、この「17」に「天・地・人」の3をかけて、式目は「51」になったとする言い伝えがあるのです。戦国時代頃にはこうした伝説は生まれていました。しかし、鎌倉時代後期の武士で京都六波羅探題の奉行人であった斎藤唯浄の式目注釈書『関東御式目』には、式目と17条憲法にまつわる前述のような話は記載されていません。おそらく、式目制定から時を経るに従って、強引に17条憲法と結び付ける俗説が誕生したものと推測されます。さて、御成敗式目が「51ヶ条」ということは、式目に関する啓蒙書や教科書にも当然の如く記されていることではあるのですが、実は異論もあります。鎌倉時代後期に幕府関係者により編纂された歴史書『吾妻鏡』には「泰時が造らせた御成敗式目は、50ヶ条である」(1232年8月10日条)との記述があるのです。つまり、式目は当初は50ヶ条で成立したが、直後に1ヶ条が付加されて「51ヶ条」になったとする説も存在するのです。ちなみに『吾妻鏡』は御成敗式目を「日本の手本」になるものであり「関東の大きな宝」であると記しています。