切り札はフランス法、信玄公旗掛松事件
公害は高度経済成長時代に問題になっており、数々の訴訟が起きたことさえあります。
そんな公害訴訟ですが、戦前にも似たようなことはありました。
この記事では戦前にあった公害訴訟、信玄公旗掛松事件について紹介していきます。
フランス法を武器に戦いを挑んだ清水
1917年1月6日、清水倫茂は鉄道院を相手取り、損害賠償を求めて甲府地方裁判所に提訴しました。
彼の弁護を担当したのは、甲府弁護士会の会長を務めていた藤巻嘉一郎です。彼は法学の分野で名を馳せ、フランス法を背景に「権利濫用論」を主張することでこの事件に挑みました。
この理論は、当時の日本ではまだ確立されていませんでしたが、藤巻はフランスで発展した法理を日本の裁判で適用しようと試みたのです。
藤巻の出身校、明治法律学校(現明治大学)はフランス法を重視しており、藤巻もその影響を受けて育ちました。
当時、フランスでは「権利濫用」の理論が存在していましたが、直接的な法的規定はなく、あくまで概念として扱われていたのです。
藤巻は、この理論を信玄公旗掛松事件に適用し、鉄道院の行為が「権利の乱用」に当たると主張しました。
この背景には、鉄道院が鉄道を運行する際に出る煤煙が松の枯死に影響を与えたという清水の主張があったのです。
1917年1月7日付の『山梨日日新聞』は、この訴訟を「名松枯死の損害賠償訴訟」として報じ、清水が求めたのは松の代金1,200円と慰謝料300円、合計1,500円であると伝えました。
提訴額は、前年に鉄道院へ直接請求した3,000円から半減していましたが、これは藤巻が賠償金の算定に慎重を期した結果とされています。
第一回の口頭弁論は1917年2月6日に行われ、清水側は証拠申請のため延期を求め、次回は2月24日に設定されました。
鉄道院側は「煤煙ではなく、熊蜂の巣が原因で松が枯死した」と主張し、責任を否定します。
裁判は現場検証や鑑定人依頼に進みました。
藤巻が提訴後、清水に送った書簡には、松の歴史的な背景や立証の必要性を強調する内容が記されており、新聞社からも事実確認を求められるなど、この裁判が社会的にも大きな注目を集めていたことがわかります。
また、藤巻は4月19日付の書簡で、現場証拠調査の日程を清水に通知し、裁判が具体的に進展していく様子が伝えられているのです。
このように、清水倫茂と藤巻嘉一郎が挑んだ訴訟は、単なる損害賠償請求にとどまらず、日本における権利濫用論の発展に一石を投じるものとなりました。
藤巻は前例のないこの訴訟に挑む中で、フランス法の理論を駆使し、法律の新たな展開を切り開こうと試みていたのです。
地裁では勝訴、舞台は控訴院へ
1917年、甲府地方裁判所で展開された「信玄公旗掛松事件」は、清水倫茂が鉄道院を相手取って起こした損害賠償請求訴訟から始まります。
老松の枯死が鉄道院の煤煙によるものと主張する清水に対し、鉄道院側は逆に「樹枝剪除請求」を提訴しました。
松の枝が鉄道敷地に越境し、危険を及ぼす可能性があるとの理由で、枝の剪除を求めたのです。
この逆提訴は、清水の「権利濫用論」に対する反論として展開され、鉄道院は自らも「権利」を侵害されていると主張しました。
しかし、この逆提訴の行方や結果については詳細が伝わっていないです。
翌1918年1月31日、甲府地方裁判所は清水倫茂の訴えを認め、鉄道院に責任があるとする判決を下しました。
ただし、これは中間判決であり、具体的な損害賠償額の決定は後日に持ち越されたのです。
この判決は「煤煙が松を枯死させたことは予見可能であり、鉄道院側にはその保護措置を取るべき義務があった」として、鉄道院の過失を認めたのです。
また、鉄道院が正当な権利の行使として汽車を走らせること自体は合法であるものの、その結果、他者の権利を侵害することは法に反すると判断されました。
この判決の重要な点は、直接「権利濫用」とは表現されていないものの、「松樹を枯死させたことは権利を超えた行為である」として、事実上、権利濫用論に基づく主張が認められたことです。
この論理は後の控訴審にも影響を与えることとなりました。