映画『沈黙:サイレンス』:挫折と苦難の中にいる人々のために
■名匠スコセッシ監督による『沈黙:サイレンス』
1月21日公開のハリウッド映画『沈黙:サイレンス』。原作は遠藤周作による名作『沈黙』。2時間42分の大作ですが、少しも飽きることなく引き込まれました。重いテーマですが、堅苦しくはありません。
Yahoo!映画には、次のような感想が寄せられています。
「凄い映画だと思いました。一度は観るべき映画の一作」
「映画好きとして至福の時間」
「安っぽい感想を言いたくない映画」
「沈黙の意味を考えさせる重厚感溢れる素晴らしい作品」
「久々に“映画”を鑑賞した気分」
「よくぞ、ここまで日本文化、日本人の心情を理解したもんだと驚かされる」
「本来映画には観た人の人生観を変える程の力があるものですが、この映画は久しぶりの映画らしいとても良い作品だと思います」
「弱い者が弱いのは何処まで彼の責任なのだろうか?」
舞台は、キリスト教が禁止されていた江戸時代。キリスト教布教のために来日した宣教師と日本のキリシタンたちは、激しい迫害にあっています。しかし、神は「沈黙」しています。
■殉教と転向
ある教えのために命を捨てるのが、殉教です。本来は宗教のための死ですが、政治思想のために死ぬ場合も使われるでしょう。為政者は、国の安定を脅かす人々に圧力をかけます。しかし社会心理学の研究によれば、殉教はその教えに従う人々にエネルギーを与えます。
踏み絵を踏めば命を助けると言っているのに、それを拒み殺される人々。それは、確かに恐ろしいことでしょう。しかし人々はその姿を見て、命をかけてまで捨てない信仰とは何だろうと考えるでしょう。
古代ローマ帝国はキリスト教を迫害しましたが、キリスト誕生から300年後にキリスト教はローマ帝国の国教になりました。
現代でも、たとえばデモを行っている人が機動隊とぶつかって、誰かが死亡するようなことが起きたらどうなるでしょう。それは殉教ではなく事故だったとしても、きっとデモ隊は亡くなった人を殉教者として扱い、その人の写真を掲げてその死を無駄にするなと叫び、運動は盛り上がることでしょう。
だから現代では、死刑はあっても「殉教者」は出さないようにします。オウム真理教の麻原彰晃が、死刑にされた後で殉教者に祭り上げられては困ります。
映画『ラストエンペラー』(1987)でも描かれているように、中国は清帝国最後の皇帝を殺さずに投獄し、釈放後は一市民として生活させます。
韓国は、大韓航空機爆破事件を起こした金賢姫(キム・ヒョンヒ)を死刑にはせず特赦を与え、結婚させて平穏な生活を送らせます。
北朝鮮の工作員だった金賢姫を、死刑にしていたらどうだったでしょうか。きっと彼女は、裁判でも堂々と自説を述べ、殉教者として死んでいったことでしょう。しかし自由を与えられた金賢姫は、深く反省しはっきりと北朝鮮政府を批判しました。
殉教などさせず、思想転向させた方が、その思想や運動を弱めるためには効果的です。このことを、江戸幕府は理解していたようです。本作『沈黙:サイレンス』の中で、役人たちは実に巧みに主人公の宣教師に転向(転ぶこと)を迫ります。
■沈黙
激しい迫害の中で、宣教師も日本人キリシタンたちも祈ります。しかし奇跡は起きません。神は沈黙したままです。多くのクリスチャンたちが処刑されてきました。
昔も今も、奇跡は簡単には起きません。現代の日本には信教の自由はありますが、多くの善人や信仰者が事故や災害で命を失うことはあります。
奇跡が簡単に起きないのは、古代の聖書の時代ですら同じです。神の国であるはずのイスラエルは、歴史の中で何度も大国によって支配されユダヤ人は苦渋を味わいます。
「主よ、なぜ沈黙するのですか」は、旧約聖書の中にも登場するセリフです。現代人で普段は信仰を持っていない人も、とても苦しい体験の中で、「神も仏もいないのか」と嘆きます。
小説『沈黙』、映画『沈黙:サイレンス』は、もちろん無神論的作品ではなく、神は無力だと語るわけではありません。また当然、お気楽なハッピーエンドの物語でもありません。
信仰を持つ人も、持たない人も、「沈黙」の意味を深く考えることになる物語です。
■私たちにとっての沈黙
不幸はいつも突然劇的にやってきます。宝くじが当たるようなドラマチックな幸運はやってきませんが、自分や家族がガンにかかるようなことは、ドラマではなく現実に多くの人が経験しています。突然のリストラや大火事や大地震を経験する人々もいます。
ある災害心理学者は、「大災害は人々から『神』を奪う」と語っています。それは、キリスト教や仏教の信仰心をなくすという意味ではなく、努力はきっと報われるとか、善人には幸福が訪れるといった人生の希望を失うという意味です。災害ではなくても、あまりにも圧倒的な現実に押しつぶされて、今までの価値観が揺らぐことは、多くの人が経験することでしょう。
現実社会に生きている私たちは、人生の中で多くの「沈黙」と出会います。
ローマ法王ベネディクト16世は、東日本大震災を経験した日本の少女の「どうして日本の子どもは怖くて悲しい思いをしなければならないの」との質問に答えています。
法王は「私も自問しており、答えはないかもしれない。だが(十字架にかけられた)キリストも無実の苦しみを味わっており、神は常にあなたのそばにいる」と答えています。
神はなぜ沈黙しているのか、それはローマ法王にもわかりません。しかし、その沈黙の中に「神」は存在しているいうのが、法王の考えであり、映画『沈黙:サイレンス』のメッセージではないでしょうか。
(遠藤周作の『沈黙』対するカトリックの意見は様々で、批判もありますが)。
■沈黙の中で聞こえるもの
なぜ大震災が起きたのか。ローマ法王にさえ、神ははっきりとは語りかけません。しかしそれでも法王は、神はそばにいるという小さな神の声を聞くのでしょう。それは、本作『沈黙:サイレンス』の宣教師も同じです。
ハリウッド映画『ノア 約束の舟』(2014)は、本作とは異なる派手な映画です。それでも、この中でも実は「沈黙」は一つのテーマでした。
世界を滅ぼすような大雨が降ることを知ったノアは巨大な箱舟を作るわけですが、映画の中で神ははっきりとは語っていません。映画の登場人物でノアと対立することになる男は、神は何も語ってくれないと嘆き自分の力で問題を解決しようともがきます。ノアは、沈黙の中に神からのメッセージを感じ取ろうとしていました。
<自分のことは自分で決めるのが人間!?:映画「ノア 約束の舟」から考える人間観と幸せになる方法>
■迫害と沈黙の結末
本作の中で、キリスト教を迫害する役人が語ります。「この国は(すべてのものを腐らせていく)沼だ」。キリスト教の種を植えても、日本では育たないと言うのです。
Yahoo!映画『沈黙:サイレンス』の感想でも、「日本にキリスト教が広がらない理由がわかりました」と語っている人がいました。
日本は、世界的に見てもキリスト教人口が少ない国です。欧米にはたくさんの教会があるのはご存知の通りですが、中国の10パーセント近くがクリスチャンだと言う人もいます。韓国は30パーセントがキリスト教です。仏教国ベトナムでも、人口の1割がクリスチャン。インドも2~3パーセントがキリスト教徒です。
しかし、日本のクリスチャン人口はわずか1パーセント。
ただ、それでも日本のクリスチャンたちは日本に大きな影響を与えてきました。NHKの朝の連続テレビ小説でも、大河ドラマでも、多くのクリスチャンが登場しています。
江戸時代の日本では、激しいキリスト教迫害がありました。本作にも描かれているように、特に長崎県の人々はキリスト教が布教されたために多くの苦しみを体験してきました。
しかし、それでも長崎からキリスト教は消えませんでした。明治になって長崎県に入った宣教師たちは、そこに多くのキリシタンたちが残っていたことに大変驚き、感激したと言います。長崎の人々は、何百年にも渡って信仰を語り継いできたのです。
日本各地に教会があるとはいえ、キリスト教が日本に根付いているとは言えない現状です。しかし、長崎県だけはキリスト教が土着しました。長崎に行ってみると、キリスト教が生活の中に自然に根付いているのを感じます。最も激しい迫害を受け、キリスト教によって最も苦しんできた長崎県でキリスト教は根を張って育ったのです。
大きな苦しみは心に深い傷を残し、どんなに強い人でもPTSD(心的外傷後ストレス障害)に陥ることもあります。その一方、大きな苦しみで深く傷ついた後で、かえって成長する人々もいます。それは、PTG(心的外傷後成長)と呼ばれています。希望は、悲しみの涙と苦しみの呻きから生まれるのでしょう。
私たちは、困難と沈黙を経験します。しかし「沈黙」は、見放されたわけでもなく絶望でもありません。私たちはみんな弱者の部分があります。「神」は、傷を負い挫折した弱者とこそ共にいるのではないでしょうか。人は、威勢の良いときに強いのではなく、弱さを知ったときに互いに強くなれるのでしょう。
私たちが味わう理不尽な困難と沈黙の中に、かすかな声があり、大切なメッセージが秘められているのかもしれません。
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『沈黙 -サイレンス-』
監督:マーティン・スコセッシ
出演:アンドリュー・ガーフィールド、リーアム・ニーソン、アダム・ドライヴァー、窪塚洋介、浅野忠信、イッセー尾形
パラマウント映画/ KADOKAWA