【深掘り「麒麟がくる」】「筒井郷ことごとく放火」順慶と松永久秀が対立した理由
NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の第34回「焼討ちの代償」は、比叡山焼き討ち後、大和支配をめぐって筒井順慶と松永久秀とが登場した。今回は、改めて筒井順慶と松永久秀との間で、過去に何があったのか検証しよう。
■比叡山焼き討ち後 第34回を振り返って
第34回「焼討ちの代償」を少し振り返ってみよう。
比叡山の焼き討ち後、摂津晴門(演・片岡鶴太郎さん)は織田信長(演・染谷将太さん)と手を切るよう、主君の足利義昭(演・滝藤賢一さん)に進言した。
それは、信長に従う松永久秀(演・吉田鋼太郎さん)と筒井順慶(演・駿河太郎さん)との大和争奪戦に義昭が加わり、順慶を支援することで、反信長の立場を鮮明にすることだった。
この話を耳にした明智光秀(演・長谷川博己さん)は、久秀と順慶を直接引き合わせ、戦争にならないよう仲介をする。
ところで、なぜ久秀と順慶は、こんなに揉めているのだろうか? ドラマでは描かれていなかった、2人の対立の背景を詳しく解説することにしよう。
■筒井順慶の父・順昭とは?
大和には数多くの国人が存在したが、中でも実力的に抜きんでていたのが筒井順昭である。いったい順慶の父・順昭とは、いかなる人物だったのか。
大永3年(1523)、順昭は順興の子として誕生した。順興は筒井氏中興の祖というべき人物で、越智氏、十市氏らと縁戚関係を結び、添下郡筒井(奈良県大和郡山市)を中心にして勢力を拡大するようになった。
筒井氏は、興福寺の官符衆徒として知られている。官符衆徒とは興福寺の衆徒(僧兵)のことで、興福寺別当、権別当、三綱が官符で補任されたので「官符衆徒」と呼ばれた。衆徒のうち20人が4年を1期とし、「官符衆徒」または「衆中」と呼ばれ、興福寺の警察権を担った。
■大和を掌握した順昭
順昭は河内国(大阪府)において、畠山氏との抗争に関与していた。最初、木沢長政方に味方していたが、のちに畠山稙長と同盟関係を結び、天文11年(1542)3月には長政を河内国太平寺(大阪府柏原市)で敗北に追い込んだ。
天文15年(1546)、順昭は大和の越智氏を貝吹山城(奈良県高取町)で撃破すると、ほぼ大和一国を掌中に収めた。その様子は『多聞院日記』に「一国悉(ことごと)くもって帰伏す」と記されている。筒井氏は全盛期を迎えた。
ところが、その3年後の天文18年(1549)4月、順昭は家臣数人を連れて比叡山延暦寺(滋賀県大津市)に入山し、家督を子の順慶に譲っている。
■順昭の死
このとき順昭は病であり、病名は脳腫瘍あるいは天然痘であったという。ちなみに順慶はわずか2歳であった。翌天文19年(1550)3月、順昭は筒井城に帰ったが、同年6月に亡くなった。
死に臨んだ順昭は、家臣に子・順慶への忠誠を誓わせた。それだけに飽き足らず、自分の姿によく似た木阿弥という盲目の僧侶を影武者とし、自身の死を3年(または1年)口外しないように命じた。
その間、木阿弥は贅沢な暮らしをしていたが、筒井氏の支配が円滑に進むと、元の僧侶に戻った。「元の木阿弥」とは、この話から生まれた故事成語なのである。
■見逃さなかった三好長慶
順昭の没後、筒井家中では、幼い後継者の順慶を順政・順国(いずれも順昭の弟)が支えるという体制が整っていた。実際には、外祖父の福住宗職が後見し、複数の内衆が存在したようである。
しかし、順昭の死によって、筒井家の弱体化は避けられなかった。順慶は河内国守護代・安見直政の支援を受けるようになった。
こうした隙を三好長慶は見逃すことがなかった。当時、長慶は畿内一円に勢力を誇っていた。そして、大和侵攻の命を受けたのが、腹心の松永久秀であった。
順慶が家督を継いで10年経った永禄2年(1559)8月、長慶の命令を受けた久秀は、まず直政の居城・河内高屋城(大阪府羽曳野市)を攻撃した。その勝利で勢いを得た久秀は、さらに大和に侵攻したのである。この様子を詳しく記した『春日社家日記』には、次のように記されている(意訳した)。
三好方より松永を大将にして、一万ばかりの軍勢が大和に入国した。その間、筒井順政は山城に行った。そのため筒井郷はことごとく放火された。
あまりに激しい攻撃により、筒井氏は対抗できなかったのであろう。こうして久秀は、筒井氏の所領と興福寺が持つ守護の座を奪取したのである。
■大和を制圧した久秀
同年8月、久秀は信貴山城(奈良県平群町)を修繕して本拠とした。翌永禄3年(1560)3月になると、本格的に大和侵攻を進めた。同年8月末に大和の北半分を制圧すると、続く11月には大和一国をほぼ平定することに成功したのだ。
久秀は一連の軍事行動を長慶から賞され、大和一国を与えられた。そして、眉間寺山(奈良市)に多聞山城を築城し、本拠とするのである。一連の戦いは、久秀の軍略家としての才覚を示すものとして評価される。
第34回「焼討ちの代償」は大和支配をめぐって、順慶と久秀の抜き差しならぬ場面があったが、そこにはここに示した背景があったのである。
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