樋口尚文の千夜千本 第108夜「15時17分、パリ行き」(クリント・イーストウッド監督)
親たちへの慈愛と励ましのエール
この作品は毀誉褒貶が激しいというが、おおかたの観客は何を期待したのだろうか。もちろんノースターの映画なので、宣伝では実話の列車テロというサスペンスの断面を強調しているが、もっといいものを見せられて戸惑うこともなかろう。ちなみにこの映画は現実のテロを勇敢に解決した3人の青年を本人に演じさせて話題になっているが、はたして彼らが主役かどうか。もしかすると、この映画は子育てでハラハラしたことがないとちょっとピンと来ないかもしれないが実は凄く親目線の、子の親に向けて捧げられていると言ってもいい映画なのだ。
そもそも3人の青年の少年時代を描く冒頭からして、親の子育てをめぐる悩みがきっちり描かれる。あなたの息子はいつも窓外を見ていて落ち着きがない、これはADD(注意欠陥障害)だから薬物を使ったほうがいいと主張する教員に対し、母親はなぜそんなにすぐ薬に頼るのか、あなたの仕事を楽にしたいだけではないかと怒る。あるいは、あなたの子どもに必要なのは父親との経験だと言われ、それはシングルマザーへの偏見であり、そんなかたちでプライベートに指図してくれるなと母親は抗議する。こういうありさまを見ていると、日米の教育事情はあまり変わらないのだなと身につまされる思いだったが、しかしニッポンの父兄が教員にこんな反論をした日にはただちにモンスター呼ばわりされるであろうから、自己主張社会のアメリカがなんぼかまだマシかもしれない。
さらにあまりに子どもがバカすぎてお母さん遂にキレる瞬間なども描かれ、本当に共感同情するのみであったが(子ども部屋にわんさとモデルガンが格納されていて、ドアには『フルメタル・ジャケット』のポスターが貼ってあって、友人からダサいと言われる迷彩柄の服を来て、学校ではADD呼ばわりされていて、同じく差別にあっている黒人の子どもが数少ない友人‥‥だなんて恐ろしいまでにウチの豚児そのものだ!)、そんな困った子もやがては成長し、夢を現実にしようと頑張って、挫折して、オトナになってゆく。イーストウッドは、本作のほとんどの時間を費やして、親の悩みと子の成長を丹念に綴ってみせる。
優しい友情で結ばれた3人の幼なじみが、成長してなんとなくパッとせず、そのことに少し物足りなさを感じている様子までもが伝わってきて、もはや彼らが職業的俳優でないことさえ忘れてしまう。ここまで来て、イーストウッドが当初想定されていたプロの俳優陣ではなく事件の当事者その人に自身を演じさせた理由がようやく見えてくる。その意図はたとえば迫真のテロ解決シーンを再現したいからではなくて、そんな話題性を口実にしつつ、大スクリーンにただの地味で平凡な「市井の人」を出したかったのだろう。本当の大きな夢にはありつけず、仲よく旅行をしては盛んにみんなでセルフィ―を撮り、お色気満載のクラブで夜通し大騒ぎしているような「ただの人」を主役に据えるという、まさかの冒険をイーストウッドはやってのけた。
そしてそんな平凡な気立てのいい子たちが、偶然にも列車テロに遭遇して仲よし三人組の連携プレーで制圧、フランス政府はへたすると大惨事になっていたかもしれないテロを鎮圧した彼らを「ただの旅行者として帰国していただくわけにはいかない」と超特急でレジオンドヌール勲章を贈って顕彰する。何かの間違いで冴えないいい子たちは「英雄」となるのだが、その贈章式にしばし映画から退場していた父兄たちが再登場するところがミソだった。青年たちはずっと手を焼かせた親たちを涙ぐませるほどの孝行を果たすわけだが、ここは何気なくも子を持つ親たちには同じ気分で参観するようないい場面である。加えて軍隊でももたもたしてパッとしなかった青年が、何の役に立つのかと思いつつ努力して学んでいたことが見事にテロ制圧で活かされる、という「日頃の善行」の報われるさまもイーストウッドは丁寧に描いている。
そういうわけで、センセーショナルな実話のテロを材にとるという体裁で、「普通の人々」をハリウッドメジャー作品の主役に据えるという(もはやそのキャリアと実績なくしては無理な)稀代の試みを実現したイーストウッドは、なんでもない「普通の人々」の「日常」こそがどんな派手な娯楽要素よりも面白いのだと実践的に証明してみせるのだった。そして、先ほどこの映画は「親目線」の映画だと言ったが、それは単に劇中の子らに対する親たちに留まらず、その親たちのさらに親世代にあたるイーストウッドの「親目線」も強く感じられる。それゆえに、登場箇所は少ないものの、これはイーストウッドが自らの子の世代である劇中の親たちに向けて慈愛と励ましのエールを贈っているように見える。