天正大地震が影響したのか!? 徳川家康が豊臣秀吉に屈服した事情
「どうする家康」では、ついに徳川家康が豊臣秀吉に屈服した。家康が秀吉に臣従したのは、政治的な情勢だけなく、天正大地震が影響したといわれているので考えてみよう。
秀吉は家康がなかなか人質を供出せず、臣従の意をあらわさないので、ついに討伐を決意した。一方の家康も、秀吉の攻撃に備えて準備を進めた。再び両者の間に火花が散ったのだ。
秀吉は真田昌幸や一柳直末に書状を送り、石川数正が出奔したことなどを知らせ、家康を討つという意思を伝えた。12月2日以降、家康配下の松平家忠は三河東部の城の普請に着手した(『家忠日記』)。また、かつては敵対関係にあった三河の一向宗を懐柔し、秀吉に対抗するため手を結んだことも注目されるだろう。
家康と秀吉がいよいよ決戦に及ぼうとしたとき、天正の大地震が起こった。天正13年(1585)11月29日、東海・北陸・近畿という広い地域を巨大地震が襲った。『舜旧記』という史料によると、海岸近くの場所については、波に覆いつくされ、死人が多数出たという。
地震はその後も断続的に翌年初頭まで続き、京都や奈良では寺社で地震が収まるよう祈禱を行った。これが天正大地震である。三河では、11月29日から翌日に掛けて、大地震があったことが記録されている。先述した三河東部における城の普請は、秀吉の攻撃に備えるとともに、地震への対策という側面もあったと考えられる。
深刻な被害は、畿内やその周辺にも及んでいた。丹後や若狭の海辺は津波に襲われ、多くの人が流されたという。被害は近江や伊勢にも及び、多数の死者が出た。
坂本(滋賀県大津市)に滞在中だった秀吉は、直ちに上洛した。禁中においては、吉田兼見に祈禱を申し付けた(『兼見卿記』)。ただし、大坂城は頑強な作りだったので、被害が出なかったという(『顕如証人貝塚御座所日記』)。
翌年1月9日、秀吉は地震に屈することなく、越後の上杉景勝に書状を送り、家康を討伐するために出陣を求めた。しかし、事態は急展開を告げる。
1月24四日、織田信雄は三河で家康に面会し、和睦の件で了承を取り付けた(『顕如証人貝塚御座所日記』)。信雄は秀吉に臣従していたので、自主的に行ったのではなく、秀吉から差し向けられたのかもしれない。
2月8日、秀吉は一柳直末に書状を送り、家康の人質の件が滞ったので成敗しようとしたが、家康から赦免の申し出があったので許したという(「一柳文書」)。同日、秀吉は蜂須賀家政に書状を送り、家康を赦免したことを伝えた(『阿波国徴古雑抄』)。
それだけでなく、秀吉は東国、北国、西国、鎮西(九州)までが自分の思い通りなったとし、家政に大坂城の普請を命じ、2月23日以前に来るように命じた。なお、秀吉の出陣取りやめは、信濃の真田昌幸にも伝えられた(「真田家文書」)。
秀吉は家康が人質供出の約束を履行しないので討伐を決意したが、家康から和睦の申し出があり、屈服させることによって、東国、北国、西国、鎮西を支配したと考えた。ここに、秀吉のたしかな自信をうかがえる。
こうして劣勢に追い込まれた家康は、天正大地震の影響もあって、秀吉への臣従を決意したのである。
主要参考文献
渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書、2020年)